水瓶座の時代の素敵な幕開けが、日本から始まりますように
兵庫県知事選について書きたいと思います。
この件には言いたいことがありすぎて、真面目に書こうとすれば、連載20回ぐらいを要すると思う。大袈裟ではなく。
それぐらい大きなこと、たくさんの要素をはらんでいる。
これまで生きてきた中で、あるいは日本という国にとって、もしかしたら「最大のヤマ場」なんじゃないかとすら思っている。
インターネットというものが万人に普及し、皆手のひらで情報を取れるようになった今、そして社会構造が大きく変わる水瓶座の時代を目前にした今、こういうことが起きているということに、こころ打ち震えている。
そもそもわたしは卒業後、政治部記者か、社会部記者、あるいは雑誌編集者になりたかった。学生の頃、わたしは社会の不正を暴きたい、真実を報じたいと思うような若造だった。
この世界にはどうして不均衡があるのだろう。どうして無実の人が罰せられるのだろう。どうして不幸な人がいるのだろう。
今にして思えば「この世界はどうなっているのだろう」という好奇心に端を発することかも知れないが、社会的なことにはいつも関心があった。親がテレビ局勤務だったのも関係するのかわからないが、「社会的なこと」「文化的なこと」は夕飯時の話題としては当たり前だった。
若くてバカだから、報道機関というものは、そういう使命を持って、そういう仕事をするところだろうと信じていた。そこに従事する人間は、公正な判断ができ、プライドを持つものだと信じていた。
文字通りの青二才、しかもこの世界、すべてが「お金」で回っているなんて、考えたこともなかったお子だった。どこかに「正義」があるだろうと。
嗚呼なんと純粋なことよ。あの頃の、あの純粋さを持っていた自分が好きだ。若さってそういうことなんじゃないだろうか。今思い返してちょっと泣きそうになっている。
そんなわけだから、どうしても行きたかった文藝春秋に最終面接で落ちたことは長いことわたしの人生に影を落とした。
枠は1名だった。わたしは選ばれなかった。
バカゆえに、「自力でやる」にこだわった。コネならいくらでもあったのに頼みたくなかった。父には反発していたから、鼻を明かしてやりたいと思っていたかも知れない。
不採用を知ったその時、自分がつくづくバカであったことを悟って泣き崩れた。単なる意地で、結果を逃す。それはバカというものだ。
以降、すべての仕事はバカバカしいものになり、やる気をなくし、仕方なく祖父の縁故で某社に入社し、つまらないと思って数年を過ごした。
それも今思えばバカ丸出しな話で、自分は恵まれていることに気づかなかった。
大人になるということは、「在りし日のバカ」を遠くに見つめながら、そのバカさ加減を愛しむことができることかも知れない。
何十年も経ち、すべての幻想が崩れ去り、40を超えてやっと「働くこと」と「仕事」の意味を知った時、ようやくわたしは文藝春秋の呪いから解放されたんだろうと思う。
文藝春秋でなくても、仮に政治部か社会部の記者になっていたら、わたしは今幸せだっただろうか。、、、というよりも、生きているだろうか?
絶対殺されてたと思う。殺されたようには見えないように、死んでたかも知れない。もしくは1年足らずでクビだったかも。いずれのケースも目に浮かぶ。
だから神はいて、「やめとけよ」って話で、最後に落としたんだとかなり真剣に思う。
殺されなかった代わりに、今、まったく別な仕事をしている。
でも「この世界はどうなっているのだろう」はずっと変わらず知りたいことであって、なんでも仕組みと構造を解き明かすことは喜びである。
この世界には不均衡があり、無実の人がいて、不幸な人がいることに対して、自分にできることをしているつもり。
そして、それは、わたしが報道に行っていたら絶対にできないことだったことは、明々白々としているので、今となってはすべて良かったと心の底から思っている。
余計な前置きばかり長くなってしまった。
不均衡を是正しようとしたせいで、無実の罪を着せられ、名誉を剥奪され、蔑まれ、罵声を浴びて不幸のどん底に落とされても、一人で戦う人が好きだ。
それが漢の中の漢だと思うし、たとえ万人が非難しても、わたしは無条件に賞賛する。
常人には分かり得ない信念を持って貫く人は、常人には理解されないのが当たり前で、これまでわたしが見てきた限り、それは貴乃花ただ一人だと思っていた。
斉藤元彦さんには、それ以上のものを感じる。
語らないことで、すべてを物語る。
そんな人は滅多に出てくるものではない。
今は、民衆がそれに呼応している。インターネットのおかげで。
「報道機関」は音を立てて崩れ、もはや無用となったことが明らかに。
未来を語るたった一人の漢の出現で、民衆が目を醒まし始めている。
ザマアミロとわたしは思っている。嬉しくないわけがない。
イエスは弟子によって裏切られ、民衆は救われた恩義も忘れ彼を殺した。
2000年以上、人類はそんなことばかりやってきた。真実が報じられなかったからだ。
今、民衆は贖罪の気持ちを持ち、石を投げたことを恥じている。もちろんわたしもだ。
我々は罪を償うことを学び、人間は良心の呵責に耐えるようにはできていないことを証明している。
素敵なことだと思う。
水瓶座の時代の素敵な幕開けが、日本から始まりますように。
その日、わたしは日本にいないけど、人々が歓喜するさまを異国で見ながら、涙を流したい。