原理原則願えば必ず叶う(独り言)

 2016年8月1日

秋にでもパリに行ってこようかな、と思ってる。
師匠にくっついて素材の仕入れに行こうと思ってる。
思ってる、ではなく、行くと思う。行く。だな。
(この時点で何も決めてないし非常にぼんやりしているが、行くってことにしておこう。そうすれば必ず行くことになるのだ!)

原理原則、何となくそういうことを口走っておくと、必ず(マリア様の導きによって)実現されるのが修道女の修道女特権である。(ほんと???)
いや、ほんと。ほんとですから。マリア様は面倒見がいいんだから。

いや別に、のこのこ旅行に行きたいわけじゃない。このモチベーション。

前にも書きたかったことだが、
わたしの特性でひとつ困ったことがある。

ときどき、わたしはフランスっぽいもの、というかパリっぽいテイストのものをむしょーに作りたい、と思うことがある。
だけど、どういうわけだがわたしが作るとなんだかイタリアっぽいものになってしまう。
それが不満である。自分ではどうしようもない。
バリエーションの幅を広げたい。

この原因は自分でもうすうすわかっていて、
つまりわたしにはフランス的なものがとっさに再現できるような肌感覚がない
ということなんじゃなかろうかと。

そらそうだ。住んだことないもん。
パリ。
旅では、何度か行ってる。でもしょせんその程度で、肌感覚になってない。住んだことがないですからね。
見て「パリっぽい、ぽくない」は判別できる。
でも、それを「作れるか、作れないか」と言ったら作れない。

年に必ず数回はパリに仕入れに行く師匠が作るものは全部なんとなくパリっぽい。
師匠のところで、使う素材選びをしているとすかさず「イタリアっぽい」と言われる。
つまりフランス素材を使おうとも私はイタリア風にしてしまう。
「どうしてなんだろう?」と言ってみたら
「当たり前じゃない。見てきたものが違うからよ!」と言い放たれた。
やっぱりね。。。。。。。
同じ考察。

そこでわたしは実験したい。
それ、、、、本当にそうなのか?
ということを。

そもそも、今の自分が持っている「センス」というものが、経験からくるものなのか、DNA的にそもそも持っているものなのか。
それを知りたい。

だから、次回パリに行ったら普通の観光客が見るようなものは一切見ない。
人だけを見まくる。徹底的に。
そして脳内で、自分の本能的な色合わせとのギャップを探すのだ。
それをつかんだら、帰ってくる。
・・・そんな感じがいい。

ここまで来て、ちょっとひらめいた。
それって、言葉を喋れないことが大きいのかも。
フランス語って、なんとなく読める、なんとなく聞いてわかる。
でも、自然に口をついて出てこない。
わたしの肌感覚って、案外そんなところに関係してるんじゃないかと思う。
イタリア語は自由に操れるのに、フランス語は一切操れない。

秋に行くなら、気の利いた嫌味エスプリの一つぐらい、フランス語で言えるようにしておきたい。

そんなことを言ってると、「いつの秋よ?」って話になってしまう。

でもどうせフランスに行くなら、ルルドにも行きたいなー。

・・・・てなことを言っていると、本当に実現されるから、言っておく。

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