色彩を解放したい

2016年8月12日

 

昔から色彩が好きだ。
坂ノ下修道院も、とにかく色の合わせが好きだから始めたと言ってもいい。

日本において人々を眺めて、着るものを見てもなぜそんな色彩の組み合わせをするのか、なぜそれでいいと判断できるのか、つねづね疑問に思う。
オリンピックのユニフォームも然りで、日本人には優れた服飾デザイナーも、グラフィックデザイナーもたくさんいるのに、どうしてそうなるのか、疑問どころか絶望的な気持ちになる。
つまり色彩は重要ではない、と皆思っているわけだ。

なぜなのか?
修道女が出した結論めいたもののひとつは、
つまり日本は着物文化を捨てた時点で色彩感覚を放棄した
だと思う。

日本の伝統色のカラーチャートを見る限り、かつての日本は特有の繊細な色彩感覚を持っていたと思う。
それは今でも歌舞伎などの伝統芸能に使用されるコントラストの強い鮮やかな色彩を見ても一目瞭然だ。
それが明治維新以降、「洋服」に取って代わられた際に、その色彩感覚を失ったのだと思う。
形は真似したが、根本的に服飾文化としては、まだ日が浅いということなのかも知れない。
そんなことをいってるうちにファストファッションが到来して、もう何もかもがむちゃくちゃになってしまった感がある。

もうひとつは、
日本人の、自己への関心の低さ、または自己評価の低さもかなり関係していると思う。
それはナウの世相で一層色濃くなっていると思う。

だいたい鮮やかな色を使うことに抵抗があるのは、「目立ってはいけない」という暗黙の指標を多くの人が持っているからで、鮮やかな色は単純に目立つ、目立つとロクなことがない、という安直で消極的な心理の連鎖から、「まあ無難」なところを常に目指すというつまらない選択をしているのだろう。
逆に言えばつまり無難でいるといいことある、という信仰なのだろうが、本当にいいことあるのか検証してみたらどうだろうか。

でも百歩譲って目立つ色は使わない、という発想でも、シックな色の組み合わせというのがあるもので、単に地味な色を組み合わせて安心な気持ちになっているのは、まあなんというか、つまり自分への関心が低いのだろう。
そしてますます町の景観がおかしくなるのである。
この国では町の美観を語る時に、せいぜい建築物のあれこれを吟味する程度で、そこに暮らす人や街を歩く人も景観の一部であるという発想が抜け落ちている。
つまり自分も町の一部だよ、とは思っていないわけである。
自己への関心の低さとはそんなところにも影響する。
周囲の目を気にする割に、自分自身の不在には鈍感になっているのは残念なことだと思う。

色彩とは何か、というと、それはたぶんエネルギーである。
ヨーロッパでは「真面目な色調」で描かれるマリア様もメキシコでは極端に鮮やかな色調にローカライズされる。
メキシコのような太陽の強いところでは、微妙な色調は意味をなさない。色はすぐに焼けて飛んでしまうだろう。
反対にパリのようにいつも曇った空の下では、メキシコ調では強すぎる。
そして夏の坂ノ下の太陽は強烈で、生きているだけで真っ黒に日焼けする。
春や秋が短くなったとはいえ、まだ四季のある日本では、本来は自由な色彩を存分に楽しめるはずだと思う。
それが生活を楽しむこと、人生を楽しむこと、自分を積極的に肯定することとかなり密接な繋がりがあるはずだと修道院では考えている。

また「エネルギーがないから鮮やかな色彩が似合わない」と考えるなら、

「鮮やかな色彩からエネルギーを取り入れるようにする」と考える方がはるかに前向きで快活である。

実際、なんでも身につけているうちに、だんだん似合うようになってくる。すべて「場数」と「慣れ」の問題だ。

検証してみたらいいと思う。

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