#記録 マイ・グレートリセット #1 敢えて群れの中の一匹になる
マイ・グレートリセット。
これまでと違うことを試みる。
何かを体験して、簡単なレビュー的にアウトプットしてしまうと、それで終わったことになってしまう。
人間は「忘れる」機能をフル活用して前に進んで行くものだから悪くないことだけど、こないだイエズス会の日帰りヴィパッサナー瞑想に参加して、実は大きな気づきをいくつももらった。
この気づきは自分にとってデカ過ぎて、簡単なアウトプットにしてしまったらチープになる気がしている。
しかし同時に、これは自分の記録でもあるから、とかく忘れがちな自分ゆえ、ちゃんと残しておくべきだとは思っているんだよ。
存在さえ知らなかった藤沢教会は、八方から光が取り込める設計の聖堂。世界でも珍しいらしい。そうだよね、見たことがないもん。
集まった人は30人ぐらいなのかな、皆どこかの教会所属の人たちだから、最初の挨拶が「あなたどこの教会?」には閉口したというより、まあ、慣れている。
しかしこのたび、いつになく謙虚な気持ちになっているわたし。「坂ノ下修道院です」とは言ってもウケるわけないから「教会には属していません」と極めて常識的な人のフリをして過ごしたけど、「ここにいる人みんなカトリック教徒」って前提が、この共同体(コミュニティ)のもつ「安心感」でもあり、非共同体員への「疎外感」でもあるだろうなと思った。
わたしは教会コミュニティに無関係だけれど、キリスト教を理解しているという点で「こうもり」みたいな存在だ(笑)
考えたら世界中いろんな教会でのミサに参加している。改めて思うのは典礼儀式とか、コールアンドレスポンスとか「共通言語」なんだよな。ま、だからやっぱり宗教って大きなレイヤーでワンワールドなんだよな。
ここにいるわたし以外の人たちは、神父と教会を通して神を信じようとしている。
しかしわたしは神と三位一体を信じている立場だけど、神父や教会組織のヒエラルキーには 嫌悪感を持っている。「直販」でいいじゃんと思っている。もちろんそんなことは、人んちに来てガタガタ文句言うようなもんだからわざわざ口に出すことではない。
だけどもしわたしが本当に思っていることを「告解」したら、神父たちはなんと言うのだろう。イエスはそんな組織を作れとは一言も言わなかったですよね、と言ったらどうなるのだろう、、、、とか、わたしの脳内には常に疑問が泉のように沸いている。
瞑想は、日帰りで初心者向けだからベーシックなもの。
・呼吸を見つめる
・呼吸とお腹の動きを感じる
・全身をスキャンする
・食べる瞑想
・歩く瞑想
それぞれ身体の微細な動きに意識を向けて「イマココ」に集中し、雑念が出てきてもそれを認識するだけで、元の意識ポイントに戻す、、、、
そして神父の解説はキリスト教的で(当たり前か!)わたし個人としては寺でする坐禅の空気感とのはっきりした違い、神父さんの声のトーンとかも含めた「場の力」によってこんなに違うんだねっていうのを認識した。
仏教では「神」という言葉を使わないけど、わたしにはやっぱり「神」とか「三位一体」とか「無条件の愛」ってものすごくしっくりくる。
瞑想については今度改めて記そう。
ここからは気づきの話。
わたしはいつも分析的で、何かを見たら反射的に分析している。良くも悪くも、脳の中で複数回路が同時に働くから自動的にやっている。
・教会に来るこの人たちの居ずまい、、、というより振動数はなぜこんなに低いんだろう
・なぜ、熱心に信仰しているのに幸せそうに見えないんだろう
・何年もやってはるのに、なぜ、そんなことがわからないんだろう
・・・とか。
言っておくけど批判的視点ではなくて、単に「なぜ?」って考えてしまう。
(いや、これ文章にしたら相当に失礼な話だけど、そう思ってしまう、ということを正直に書いてるから批判は甘んじて受ける。わたしの気づきはこの先も語弊と失礼だらけだけど、正直に書くから仕方ない)
なんでだろう、なんでなんだろう?
そんな風な疑問を感じながら半日を過ごして、帰宅してからずっと反芻する。
皆さんと神父さんとのやりとりをじっと観察していて、要するに全て二元性の中でみなさんもがいているんだなってことを知ったけど、
そして、教会はそういうことをもっとわかりやすく教える方法あるだろうに、いくらでもあるでしょう。なんでしないの?、、、と、どっか改革者根性の眼差しでも観てしまい、図解しつつ、聖書のエピソードを入れつつ、、、、なんて、脳内Keynote作り始めてしまったり。
ま、しかし、
こんなことだからスピリチュアルが流行るわけだし、でもそれって「信仰」に基づかないものだから薄いし、高額セミナーだし、結局洗脳だし、、、、、とやっぱり分析してしまう。
で、
・・・・・あれ?
ふと気づいた。
「幸せではないから教会に来ているのでは?」
(や、これも超語弊があるかも知れないが、ちょっと正確な言い方がわからない。しかも批判でも軽蔑でもない)
これはわたしの中で発想の逆転。
で、
・・・・・・あれ?
「それでいいのでは?」
と気づいた。
なんか教会の存在理由を見たというか、、、要するに「サードプレイス」としての役割を果たしてるのでは?と。
だって世の中みんな悩んでない人いない。取るに足らない悩みから、人には言えない辛さ、想像もできない艱難辛苦まで、みんなどこからしらに悩みを抱えているものだよ。
そんな中、ここではみんなが弱き者。聖書とイエスとマリア様という共通言語を持ち、みんな一歩でも聖書の言葉を「わかろう」とすることで、それぞれの悩みを解決しよう、あるいは自らの体験をシェアしようという前提になっている。そのことは瞑想会後の分かち合いの時間に出てよくわかった。
あの人たちはみんな自力で一歩ずつ進もうとしているんだなあ、、、、、と感じた時、何か尊いものを感じて、リスペクトの気持ちがぴゅっと湧いた。
それもまた泉のように。
それからわたしはせっかちで解決志向が強くて、
「わからない」人、の気持ちが「わからない」
かも知れないって、風呂に入りながら気づいた。
や、そうだ。そういうことなんだ。・・・・・けっこう衝撃だった。
そのことは神父さんの態度について反芻していた時に悟った。
厳格な感じの方で、にこやかさや柔らかさ、ユーモアやとっつきやすさは感じない。けれど声の発し方は柔らかく、質問者への返答は丁寧だ。
この方は人に教えを説くこと数十年。来る日も来る日も、同じような質問、同じような感想のシェアを受けているだろう。
「なんでわかんないんだろ?」「繰り返し言ってるのに、まだわからない?」なんて考えることはあるのかないのか。
いやいや、そんな風に考えた日はとっくに去っているのだろう、と想像する。
だって教会は「解決」を目的としていない。(これも「良い/悪い」の話ではない)
ともかく、神父さんは、説明も説得もしようとはしない。あくまで「説教」(教義を説く)というヒントを通して、本人が自分でたどり着くのを促している(ように見える)。
人生は短いから、そんなことでは辿り着くまでにどんだけ時間かかる?もっとヒントを多く出したら、、、と思ってしまうのがわたしだが、教会はそうではないのかも知れない。
が、それはそれで良いのかも知れない。何れにせよ、たどり着くかつかないかは、「その人」の問題、もっと言ったらその人単体と神の間の話だから。
しかしそれでも、そのわずかな数ミリの前進を、この人たちが本当に喜んでいる姿は、何かわたしに大きなものをもたらしたかも知れない。
それにここではみんな親切でこころよく、「子羊の群れ」だから、自然に自分も「礼儀正しいいい人」になっている(つもり)。
いずれにしても、こうなったら今年をかけてこの神父のところで少し学んでみようかと思う。
イエズス会の規定では、8日間のヴィパッサナー合宿参加には、日帰りヴィパッサナーを3日間受けることとなっているわけだが、
せっかちだからこの「資格」について聞いてみたところ、神父さん自身は「瞑想に慣れているなら大丈夫です」と仰って、申し込みは事務局へと言われた。
事務局に参加を問い合わせると、「日帰り3日間」必須と言われ、まあ、これまでなら「神父のOKもらってます」とかなんとかゴリ押ししたかも知れないが、今回はそれをしない。
理不尽だと思うことを受け入れてみる。
神父さんにシンパシーを感じるわけではないが、感じないからこそ師事してみようかなという気になっている。
ついでにイエズス会といえば「霊操」なので、こちらも8日間、トライしてやる!と決めた。
敢えて群れの中の一匹になってみるって、なかなか良いグレートリセットじゃないかなあ。
・・・・・ということで、ただの雑記になりました。
これから時間をかけて、まとまっていくのだろうから、これはこのままで、無理して綺麗に収めない。
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ぇ。おもしろい!!
めちゃウケました←「坂ノ下修道院です」
そして。
神父の在り方について、すっごく納得しました!
考察脳、解決脳は、かおりさんに近いと自分は思ってまして(おそれおおい)。
ゆえに、似たようななぜ?を感じておりました。
自分で気付いてもらうように導く~
とても納得です。
そしてそれは、非常に技術のいることです。
幸せじゃないから教会へ行く…
これもまた膝を叩き割りました。
幸せな人はそもそも宗教すら要りませんもん(私)。
そもそもは宗教システムというものに、かおりさん同様嫌悪感半端ない~とこが出発点ではありますが。
これって、実は有料級の気付きではないでしょうか?
それらをいつも惜しみなく披露してくださるかおりさんのおかげで、私もたくさん自説にエビデンス?をいただいてます。
ほんとうにありがとうございます!
潜入ルポ?楽しみにしておりますよ。