#記録 マイ・グレートリセット #3 それがわたしだから仕方ない
自分のリセット記録として書いています。
語弊、失礼な表現は承知の助で正直に思うところを記すシリーズ。
#記録 マイ・グレートリセット #1 敢えて群れの中の一匹になる
マイ・グレートリセット。 これまでと違うことを試みる。 何かを体験して、簡単なレビュー的にアウトプットしてしまうと、それで終わったことになってしまう。 人…
「何者でもない自分」を取り戻したい、、、、という、まあ言葉にしてもわけわからない漠然とした欲求、強くて猛然とした欲求ではなくて、なんとなく、そんな気がするといった感じの、でもしっかりした欲求が昨年ごろからありまして。
何か新たなスキルを身につけるだとか、刺激を求めるだとかとは真逆の深く静かなものです。
ここのところあらためて思い直すことが、
わたしは何かの役に立ちたいなんて思ったことは一度もない。
誰かの役に立つことで褒められなくては、などという考えを持ったことがない。
これを話すと非常に長く、またクソ真面目な話になるけど、それが人生の正解だと思っている明確な根拠があります。(って、書いて、あーーー今というこの時代だからこそ、これはきちんと書いておくべきことかもと気づいた。→ 宿題にします)
とにかく、誰かに褒められるために生きていないけれど、ただ、純粋に好きで夢中になって、経験だったり気づきだったり技術や知恵、方法論が蓄積されて、それを提供した時に結果としてどなたかの役に立つ。
まあそんな風にしていればなんとかなるし、人生とはしては満足度が高い。
またこの場合、どなたかの役に立つということは、どなたかの「何か」を解決することで、価値を提供できたなら嬉しい。とても嬉しい。
だけどこの提供する価値は、自分自身が「おお〜!」と価値を実感したことからすべて始まるわけで、自分の中の空白を埋めるために無理に取得する何かとは違うと思ってます。
この数年で、かつて自分では思ってもみなかったいろんなことができるようになり、提供できるようになったんですが、「いま」というこの期間は、そういう自分に付随した特殊能力とかこれまでの取り組みは「いったん脇に置いといて」ってところで、自分が納得する自分の状態を作りたい。
んなわけで、「敢えて群れの中」に入ってみることにして、日帰りヴィパッサナーの2回目。朝早く起きて、初めて乗る電車に乗って、遠路はるばる石神井のイエズス会まで行った。
大きな気づきとしてこの日いちばん響いたのは、
「神は私たちを絶対に見放さないが、私たちが勝手に神から離れてしまう」
という神父さんの言葉だった。
あー、そうよなあ、と思った。
「今この時」を人間は知覚できないけれど、しかし内側では何も起きていない。何も問題はない。アゲもなければサゲもなく、滞りなく鼓動がリズムを刻む。
つまりどんな時でも無条件に生かされている。
ときどき、このことを忘れてしまう。
我々を苦しめる過去の幻影も、未来への不安も、今この時には一切存在していない。
→ それに過去の幻影は、消すことができる。
「初心者向け」となっているため、神父さんの説明のお話は前回と同じで、早くも退屈を感じている自分。
わたしは同じ話を何度も聞くこと、すでに承知していること、会得していることを繰り返されるのを苦痛に感じる。
みんなもそうだろうと思っていて、一度話したことを「また」聞きたくもないだろう、と思ってしまうわけだが、それは自分が「わからない人の気持ちがわからない」からで、何度か聞いてやっとわかる人もいるんだということを、この日も知った。
聞く→理解する(合点が行く)の「→」の部分は時間で、この「→」の間に皆それぞれが反芻したり、自身の中で湧いてきた疑問と向き合ったりして過ごす。
→が長い人もいれば、短い人もいる。時間をかけて醸すものは深い。一度腑に落ちればその後何かあってもリカバリは簡単。
前回とっつきにくいと感じた神父さんへの印象は、この日変わった。
お家が代々カトリックで、そのまま幼児洗礼を受けてこの立場にいるがそれゆえに難しさも感じている。キリスト教はともすれば頭でっかちで、「無条件の愛」というものを腑に落とせたのは、インドでヴィパッサナーに預かったからだ、というお話をされていた。
それを率直にお話しされる彼を素敵だ、「いい話」だと思ったが、同時に「まじか!」とわたしが思ったことも事実で、やっぱり前回感じたように「カトリック教会にメソッドはないのか、、、」と思ってしまう。いやあるだろう。あるに決まってる。だけど秘匿されているんじゃないか?それはあんまりじゃないか、、、、、
それでまたあれこれ脳内巡るわけだが、、、、
・とかく西洋の宗教は身体性を無視していて、姿勢(物理的な)の指導もないなら、三位一体を本当に骨身にしみてわかることなんてあるんだろうか?(ないだろう)
・「神秘」とかエソテリックな部分は秘匿されているどころかご法度なのかもしれず、そのため「神智学」みたいなものが他方で発達した→ 今の「スピ」の源流
・だけど「スピ」は特殊能力の開花だけに偏重するから神不在となるし道徳が育たない。ともすればオカルト
・カトリックと神智学がうまいこと融合すれば良いけれど、そうなると司教とかのヒエラルキーが崩壊するから教会は絶対に取り入れないだろう
・・・・・・・・・とか、どうしてもわたしは何を見ても分析的になる。
けれどそれがわたしだから仕方ない。
ミサの式次第、文言はけっこう頻繁に更新されているらしくて、誰が決めてるのか、わたしにしたら違和感あるものになっている。
主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしい者ではありません。 おことばをいただくだけで救われます。
え、ちょっと待ってよ〜。おかしくない?これ敬虔な信徒ほど「自分は主をお迎えするにふさわしくない」って刷り込まれるわけで。それではまるでゴールのないすごろく。人を解放しない。
この辺のことが、関係者の振動数を下げている要因なのではとも思った。
ただでさえ謙虚すぎる日本人、羊の群れが何も考えずに唱える言葉に仕掛けられた罠。こういうのは本当にいやだ。
・・・・ってイエスは本当にそんなことを言えと言ってるのかと聞きたい。が、もちろん黙っていた。
それで思ったのだが、「沈黙」って要するにそういうことで、そこに異を唱えるよりは、それを受け入れるか受け入れないかは自分が神と対話して決めたらいい。
ああ、遠藤周作。そしてカトリックはあの本(『沈黙』)を発禁にしたのだったと思い出した。
半日終わって「分かち合い」の時間。
またいろんな人がいることを知る。
自分のクライアント皆さまとは違う種類のいろんな人がいる。ここにいる方々は、辛い中で、キリスト教会を救いとしている、救いとしたい人たちだ。
難病・奇病の人もいる。しかしどこかで、それを治せるんじゃないかと思ってる自分もいる。決して傲った意味ではなく、また根拠もないことだが、簡単なことでこの人は全快するんじゃないかと直感している自分がいる。
聖職者は、それを治せるべきなんじゃないか、と思う自分もいる。多分、いにしえには、彼らにはそれが可能だったんじゃないか?少なくとも日本では、古神道には体系化されたそれがある。
いろんな人の話がシェアされる。
みんな「感情と自分自身の混同」に悩んでいる。出てくる感情を無条件に見つめてジャッジしない、がいかに難しいか話す。
シスターたちの話はわたしには衝撃だった。ある方は修道院にいて鬱病になり、医者にかかった。「わたしなんてダメだ、わたしなんて、、、」となった。
衝撃だったし、悲しくなった。
つまりやっぱりメソッドがない。人生を神に捧げる決意をした人にメソッドが与えられていないなら、それはあんまりじゃないか。。。
この方にいろいろと質問したい気持ちを抑えて、黙って拝聴していたけれど、とどのつまりみんな三位一体を実感することなく日々のお勤めをしているわけで、つまり言ったら頭の理解だけで神性に近づこうとしているわけで、それは彼らご自身のせいではない。しかし本当にそれでいいのか、たどり着くのか、、、、とやっぱり考えてしまう。
それにイタリアでもブラジルでも、はっちゃけたシスターたちを見るし、もしかしたら日本の修道院だけ、特別に「JOY」の概念は排除され、「奉仕と犠牲」が文字通り日本語的な解釈で強化されているんじゃないか、と勘ぐってしまった。
それでわたしは最後まで黙っていようとしたのだが、最後に促されてお話しさせていただいた。
皆さんはご自分と出来事や感情を分けてみることに苦労なさっているお話しでしたが、わたしは皆さんとは逆で、なにか特殊な体質のせいで、小さい時から自分の上にもう一人の存在がいました。
この存在はいつも自分を冷静に見て指摘してくる。当然、みんなそういうものだと思っていたのだがそうではないと気づくまでにかなり時間がかかった。これはこれで辛いものでした。
この存在は何なんだ。自分の課題はこの存在と人間としての自分を統合することでした。ですから無条件の愛ということを知って楽になった。マリア様は子供の頃から面倒見てもらってる親戚のおばさんのようなもの。。。。
という話を、まあ失礼のないように言葉を選びつつもぶっちゃけ口調で話したところ、神父さんも、さっきのシスターも笑ってくれた。
自分を開示することは大したことではないが、こういう場にいる方々へのリスペクト、こういう組織の規則に則っている人々の邪魔をしないように、わたしなりに大変気を遣う。
しかし話したら実に晴れ晴れとした。
終わったら、神父さんからとっつきにくさは消えて、なにがしかはわかってくれたみたいでホッとした。わたしも彼の誠実さを理解して信頼することができたように思う。
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