修道日記(2)信じるとか信じないとかではなくて

修道日記(1)ワクワクもせず、ユウウツでもなく淡々と

10日間の「キリスト教的ヴィパッサナー」合宿から戻り、まだ余韻が残っています。風化させないようにそろそろ書いていこうと思います。 ただ、気づきが細かく、また莫大で…

 

続き。

 

瞑想について。

ヴィパッサナーとは、「観察する」「物事をあるがままに見る」を意味するようで、上座仏教由来のこの瞑想法はヒンドゥー教インド人のゴエンカという人が一般層に広めた。ちなみにこの人はいわゆるヤク中だったのを、この瞑想法によって完全に離脱できたというエピソードがあるようです。

また、この「ありのままに見る」仏教的要素が、難しいことはわからないアメリカ人のある種の層にさらに概念を簡略化されて「マインドフルネス」という言葉で広がり、逆輸入で日本に入ってきて、一時期からその界隈の人たちが飛びついて知られるようになった。

ものごと、心の動きを「ただ、そう、と認識するだけ」で、そこに善悪などのいわゆる二元性の裁きを自分で下さないというトレーニング、認知療法的な意義もあると思う。

けれど、わたし自身としては「マインドフルネス」ではなく、もっと奥に進むこととに関心があります。

で、ヴィパッサナー瞑想は10日間の合宿で、誰とも口を聞かず(人と目を合わせてもいけない)、朝の5時から夜までひたすら瞑想するもので、プロセスの中には組んだ足を絶対に動かしてはならないといった苦行に近いものもあり。

日本で提供しているセンターは千葉と京都にあり、わたしの周囲でも参加した人は結構いる。

見るからにギラギラしていた経営者が、見違えるような柔和な穏やかさに満ちた顔になって出てきたり、何かに気づいてツキモノが落ちたような体験をしたりの話を直接知っている。

しかしなんとなく察するに、肉体と精神を極限までいじめて、強制的に自我(キリスト教で言うところの「エゴ」)をブレイクダウンする、といったものだろうと考えて、わたしは何かが引っかかっていた。

 

数年前、周囲でこれが流行り出した時に検索して、「キリスト教的ヴィパッサナー」を今回行ったイエズス会修道院で提供していることを知りましたが、だからといって即行こう!とは思わず忘れていました。

しかしこの1、2年で自分としてなんとなく停滞を感じていて、自分のモチベーション、果たして自分は何のために今のサービスを提供しているのか、何がしたいんだ、どこに満足を見出したらいいんだ?というような、方位磁石がぐるぐる回っているような感を得ていたので、ふと「ヴィパッサナーでも行ってみっか」的に心に浮かんだ時、仲良くしてもらってるお姉さんが偶然「今日からヴィパッサナー行きます」とポストしていて、ほほう!と思ったのでした。

それで話を聞いたのですが、それでもやっぱり食指が動かない。

ってなところで「キリスト教的ヴィパッサナー」を思い出して検索し、こっちにし〜ようって思ったのでした。

そしたら近所のカトリック藤沢教会で次週にも1日コースがあることを知り、今は尊敬し「師」と呼べるこの神父に出会うわけですが、まあ、こういうものもすべて用意されてるんだろうなあ、「神」によって。

と思うわけです。

 

 

で、「キリスト教的ヴィパッサナー」は、キリスト教があまりにも頭脳優先の宗教で、身体感覚が欠如していることに悩んでおられた柳田神父が20年ぐらい前にインドでヴィパッサナー瞑想に預かり、「無条件の愛(アガペー)」というキリスト者にとってコアとなる概念を身体で理解し、「我が意を得たり」の感覚を得て、この瞑想メソッドを活かしながらキリスト教としてのロジカルな解釈を添えてお広めする活動をなさっているものです。

「神」の概念を持たない仏教との比較なども含めて、わたしにはこっちの方がしっくりくる。

またとにかく身体を極限までいじめることより、一人きりでじっくり考える時間が多く取られていたこともわたしには良かったです。100ページぐらいノート書きました。

神父の講義も説教もとても良かった。身体だけでも、「感覚」だけでも満足できない自分としては、分厚い「神学」に基づいた理論を聴けたことがものすごく良かった。

その上で、わたしはカトリックの霊性をコアに持つけれども、現教会には絶対に受け入れられないことも多く、教会には近づかないっていう立ち位置を取っていることにもきちんと納得いった。自分にとってこれは目からウロコの画期的なことでした。

 

 

キリスト教について

この本は本当に素晴らしい。(キリスト教を「信じる・信じない」視点ではなくて、興味あれば是非読んでみてください。自分で実践できる呼吸法についてもガイドがあります)

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この言い方もどうかと思うのですが、わたしが以前「坂ノ下修道院」で伝えていたことのすべてが、頭脳明晰な柳田神父によってわかりやすく丁寧に書かれています。

しかもわたしが以前から「疑問に思う」というより受け入れられない、「そりゃ違うだろ!」と思っているカトリック教会のいくつかの問題、、、、、つまりそれらの問題があるがゆえに、わたしは洗礼を受けようかと画策したけどやっぱ受け入れられないからやーめた!となったけっこう根源的な問題について、この本に網羅されていることには心底驚いた。

逸れますけど、そういやあの時の体験もかなり面白かった。

自分の中で「洗礼を受ける?受けない?」の勢力(俺1号と俺2号)が拮抗していて、「イタリア語で宣誓できるなら受ける、日本語でなら嫌だ」という、まったくわけのわからない欲が出てきて(セルフ賭け、みたいなもん?)、一方で、「まさかあんた、そんなの不可能に決まってんじゃん😆」と思っていたら、なんと我が家から一番近いカトリック教会に、最近赴任した神父がイタリア人(!)という、狐につままれたような「まさか」感を得て会いに行ったのですが、、、、、まあ、悩んで結局「やーめた」にした。

その時、さらにその様子を「俺3号」という存在が出てきて見ていて、「それでよし」と言ってることにもビックリしたんですけど。

・・・・まあ、こんなのは自分にしかわからない話です。

 

話を本に戻すと、柳田神父の、頭がいい、全方位的に知識がハンパない、というだけでなく、深いところに持つ疑問(カトリック教会や教義解釈への的確な批判的視点)、またそこへのご自身が導き出した解、というのが鮮やかで本当に感銘を受けました。

そして自分の中にかなり強めに流れているカトリック性、つまり「三位一体の神」と「無条件の愛」という、おそらく信徒や聖職者が一生をかけてその真意を「勉強(アタマ、理屈の話)」するものを、自分は体感としてわかっちゃってる。信じる信じないではなくて「そうそう、そうだよね」としか言いようがないこの感じ。

 

と同時に、

教会で「聖書を学ぶ」なんてことを1回もしたことがなく、よく聞かれる「聖書はどこで勉強したんですか?」の質問にも「勉強した」なんていう記憶を一度も持っていない「ただ知ってる」だけなのに、このレベルの疑問を持つ自分て一体なんなんだ?冷静に考えて、ハァ?誰だお前?とあらためて自分に疑問を向けることにもなりました。

 

子供の時から、「変わった子」ではあったものの、何が、どう変わってるのか、何がほかの人と違うのかは今までもずーっと曖昧で、「感覚的なもの」としか言いようがなく、いわゆるスピ界隈の人々でも、自分に似た人に会ったためしがない。また何かの能力を「獲得」しようと思った試しもなく今に至ったわけですが、今回の10日間でも常に自分の特殊性と向き合わされることになりました。

結果として、やっぱり「違うんだ」ということだけが身にしみてわかったけれど、ときどきこれ(感覚の違いさ加減)がわからなくなってしまう。

日頃から、自分は特別な人間なんだ的な意識を持って生きていられる人は良いですが(イヤミな意味ではなくて、まじめに)、わたしの場合はそんなことすら考えてない。

そしてこれを解決してくれる人は誰もいないってこともよくわかったので、自分で折り合いをつけるほかになく、めんどくさいなと思う気持ちしか今までなかったけれど、自分に与えられたものをどのように活かすべきなのかってことだけを真剣に考えて捉え直そうと思いました。

 

また、「いわゆるキリスト教」が日本で広がらない、広がるわけがないと思ういくつかの理由についても、10日間で決定的に腹に落ちました。

まあ、だからこそ、わたしみたいな者の存在価値もあるのかもしれない。

って、人は誰でも、誰っでも、どんな人でも存在価値も存在理由もあるわけなんですが。当然これを読んでくれているあなたも。

人それぞれ存在のレイヤーがあるのかなって思います。

人生なんて要するにすごろくみたいなもんですよ。与えられた版でゴールを目指すしかない。

 

 

>>続く

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