修道日記(3)追い越しすぎて免停食らうとこだった!

修道日記(2)信じるとか信じないとかではなくて

  続き。   瞑想について。 ヴィパッサナーとは、「観察する」「物事をあるがままに見る」を意味するようで、上座仏教由来のこの瞑想法はヒンドゥー教インド人…

 

瞑想は最初の3日間、極めてベーシックなもので鼻から吸って鼻から吐く。その間でてくる雑念や感情を「ただ見つめる」=無条件に観察する。それに対して分析を行わない、というもの。

自分にはこれがけっこう難しかった。

というのも、意識を集中して「いま」を感じつつも同時にいろんなことを構想している。

瞑想中、自分の中で1号は構想し、2号は構想している自分をずっと認識している、、、みたいな説明でわかるしょうか。(わかんないよね、自分にだってわかんないもんw)

まあ、いいや。

 

無条件の愛について

10日間を過ごして、やっぱり「無条件の愛」は人類に与えられた最大の恵みにして最難関なんだろうって確信しました。

結局、人間は「無条件の愛」に気づいて受け入れた時、本当の癒しが「起きる」。

それが起きたら後は勝手に物事が進んでいく。絶対に。

これはカトリックであろうとなかろうと、イエスを信じていようがブッダを崇拝しようが空海に教えを乞おうが関係なく、人間にもたらされた最大のものなんじゃないかしら。

それはゼロであり、空であり、愛であり。

すべてがある場所だけれど、完全な透明でもある。自分一人だけど、みんないる、みたいなもん?言えば言うほどわけわからなくなる。

だから各古典宗教で一生懸命その「場所」と、アクセスの仕方について説いたんだけれど、、、、、

 

アクセスするために、心のゴミを一掃する、ものごとをすべて客観的に見つめる、社会通年とか固定観念とか常識といったフィルターを外す、感覚を鋭敏にする、情報を遮断する、自我から離れて無心になる。とかとかとか

といったことが必要なんですよね。

だけど日常生活で人間として生きながらそれをやるのは本当に大変なんだと思います。

 

深い癒しは自身の深い気づきとともに「起きる」わけで、外部から「癒される」はちょっと何か違うと思います。

深い癒しは一度起きたら、たとえばその後、そのことに触れても心痛んだり感情が動いたりせず、淡々と客観的に見つめたり、笑い話にしたりできるようになります。

だって、治癒の「癒」だもんね。隠したい、触れられたくない、感情が動いてしまう、、、ようなら、それは真の癒しではなく、心の緊張が少し緩んだ段階、ということかも知れません。

もちろんそれだけでも大切だけど、「癒し」っていう言葉はあまりに一人歩きし過ぎたんじゃないかなー。

 

で、ひとたび「無条件の愛」に触れても人間生活の中でなんとなく軌道がずれていったり、迷子になってしまうのが常のようです。

だから折に触れて見直す必要がある。

エゴ(自我)っていうのは賢いから、進めば進むほどわかりにくい形で出てくる。何かの裏に潜んでる、って柳田神父の言葉がメモってある。

今回の自分はまさにそれだったんだなーって、後になってよくわかる。あーよくわかる。

あーーーーーほんと、人のことはよくわかるのにね。かーーーーーーーーーーー自分を写す鏡はないわ。

 

それほど「無条件の愛に気づく」って大切なんだけど、どんなに聖職者が説こうと、人々(教会信徒)に「無条件の愛」はぜんぜん伝わらない(失礼承知ではっきり言い切ります)。

なんでだろうか?って考えて、カトリックは「神学」としての「無条件の愛」は完璧だけれど、そもそも難しい「無条件性」の腑に落ちる解説がなく、またそれゆえメソッド化されていないからなんじゃないかな。

というのも、それをやってしまったら「教会ヒエラルキー」が成り立たないから仕方ないことだったのかも知れない。ある種の自家撞着というか。組織ってそういうものだもの。

→ これに関しても「だから教会なんかいらない」って前は思っていたけど、今回は考えを改めた。

自分には必要ないというだけで、教会だからできることもたくさんあるということを腹に落としたし、矛盾の中でも個人個人のあり方の方がよっぽど大事だなと思った。

 

なので、

その意味では自分がこれまで提供してきた「二元性からの離脱」理論はかなりいいセンいってるかと思う。自画自賛にならないよう、図解を神父様にもチェックしてもらった。

そこまでは良くても、しかしこれを日常で各自がチェックして潰していく、ということはきっと難しいのだろう、ロジックはわかってもみなさんにとってやっぱり「アタマだけの理解」に留まってしまうのだろう、ということを今回腹に落とせたから、さらに進んで、じっくり取り組んでもらえるようなことを提供していこうって考えた。

北鎌倉で瞑想を取り入れながら各自がステップを上げていくことをやってもいい。さらに三位一体で一番わかりにくい「聖霊」についてもグリッドを使って体感してもらえる。

ああ、それはいい、実にいい、、、、となって頭の中はその構想をしている、、、瞑想終わってそれをノートにメモしている、みたいなことをやっていました。

 

 

わたしはあまりにもせっかちだ。

で、自認する課題のひとつとして「わからない人の気持ちがわからない」についてもずーっと向き合い続けた。

わかったことはいくつかあります。中でもがーん!となってるのは、

自分でせっかちだと認識している以上にせっかちなんだ(笑)

「神を追い越さない」

って、今書きながら気づいたんだけど、やだ、これ自分に向けられたものじゃん!

追い越しまくってたよ!

そのうち免停になるとこだった!

って後から後から気づいてくる。

「イマココ」にしかいない神(=無条件性)から遠くなってたよ。

ゆっくり、丁寧に、じっくり。

それは誰か人のため、クライアントのためというより、自分自身にとってもっとも大切なことなんだわあ。

 

神まじヤバい。

このままだと免停だよ〜ってことで、羅針盤を狂わせたり、柳田神父に出会わせたりしてんだから、免許一発取り上げにしないっていいヤツだ。

ほんとよく見てはる。さすがだわ。

悔い改めます悔い改めます、はい。

 

 

>>続く

 

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