修道日記(4)全否定もなく、全肯定もない
修道日記(3)追い越しすぎて免停食らうとこだった!
瞑想は最初の3日間、極めてベーシックなもので鼻から吸って鼻から吐く。その間でてくる雑念や感情を「ただ見つめる」=無条件に観察する。それに対して分析を行わ…
さあ、そろそろ端折りたくなってきましたが(爆笑)、きっちり続けていきます。これも修行です。
たまにはクソ真面目な自分と対面する
初日はほぼ顔合わせ。翌日に神父さまとの個人面談がある。15分と短い中で、この超マジメでとっつきにくいお方に何を話すべきか考える。
自分は三位一体を確信しているからおそらくカトリック的な人間だが、権威主義が嫌い、ヒエラルキーが嫌い、受け入れられないことが多いので、洗礼も受けず、教会には属さない。
イタリアにいたので教会は身近だが、何かあると聖アントニオに祈ればいいと思っているような人たちをバカじゃないかと思ったりした。決まりの遵守より、自分の良心に従って良いと思うことを素直にやる。
教会の信徒さんを見ていて、失礼な意味ではなくこういう感じなのか、皆それぞれの課題と向き合っておられるのはわかるが、自分とはベクトルが違う。
神を仰ぎ見るということもしない、マリア様は面倒見のいい親戚のおばさんで何か困ったら相談している、マリア様の出た各地色々言った。ルルドは凄まじい体験あり。イエスはいいヤツで友達みたく思ってる。
個人的な悩みは特にない。子供の頃からこの世界は一体どうなっているのか、ということが関心事だった、、、、ということを失礼のないよう綺麗な言葉を選んで慎重に話す。
無表情のまま聞いてくれた神父は頷いて、「教会に入る必要はありません。あなたは思う通りにおやりなさい」と言った。
そりゃそうだろう、こんなのがいたら「和」を乱すどころか破壊者だ。
以降、期間中、毎日グループ面談といって日々の気づきや取り組みについて分かち合う30分の時間がある。わたしは、言葉選びには慎重さを保つよう相当注力した。わたしのグループは皆さま高齢で真面目な中で、真意ではない言葉で伝えるのはあまりにも憚られると思ったからだが、やればできるとわかったどころか、そうなると本当にクソ真面目な人間としての自分がよくわかった。
というよりも、クソ真面目である自分を臆せずに出し切れたことがとても良かった。

教会が役割を終える、次の世界の神殿は我々の中に
ところで事実として、教会は存続の危機だという。
日本において信徒はほとんど全員高齢者、神父陣も高齢化で後継が育たない。実際、修道会から来ているシスターたちも平均年齢86歳(!)
言われてみれば、そりゃそうだろうと。
世界30億人のカトリック教徒だってこの現象は同じことなのではなかろうか。
それは魚座時代の象徴としてのイエスを担ぐ教会が、水瓶座の時代には役割を終えるってこととリンクしている。
イエスの行いと神についての「お勉強」はおしまい。
これからはお勉強ではなく、我々の中にある神聖さ、つまり「神性」を発動して生きて行くことになる。
自分の中にマリアさまを見つける。自分がイエスだと思って生きる。
・・・・そうだよ。
だったら「坂ノ下修道院」でいいじゃん。みんな1人1修道院運営すりゃいいんだよ。
実際、集中してカトリック「神学」にまみれた10日間を過ごして素直に感じたのは、キリスト教っていうのは信仰というより「お勉強」の世界なんだってこと。
千数百年かかって積み上げられてきた分厚い「神学」は理論上完璧で、その辺の「スピ」なんかの入り込む余地がない。(それが良いかどうかの話はこの先)
神父さまはギリシャ語もラテン語も勉強する。もちろん英語も話す。そしてご自身がキリスト教の限界を感じて仏教まできちんと把握され、またバートランド・ラッセルに代表されるような無神論者へキリスト教神学としての解も見出している。その熱心さ、頭脳の鋭さには純粋に感動するし、説明にはまったく齟齬がないから「うん、うんうんうんうん」と頷いてしまう。
しかし、それでもわたしが言いたいのは「頭の理解じゃん」てこと。決してディスる意味ではなく。
そして信徒さんも、どこまでいっても「聖書の解釈」だけを追い求めている以上、永遠に目覚めることなんてないと思う。だからみんな暗い顔をしているんだよ。
ものすごく失礼なことを言っているとは思うけれど、実際わたしは正直にそう思っているから仕方がない。
理論だけで人は救われたりしない
というのは例えば、
福音書で「イエスを侮辱しても許されるが、聖霊への冒涜は絶対に許されない」とか「聖霊への冒涜は死に至る罪」とまで言われている「聖霊」っていったい何よ?
「聖霊のはたらき」を理屈で説明はできても、肥大化した左脳が、それを体の感覚として得たり受け止めたりすることができない。
どこまでいっても理論的な説明に終始している。
つまり三位一体の中でも、それがなけりゃ「死に至る」とまで言われてるのが「聖霊」さん、受胎告知でもマリアの中に入ってきたのが「聖霊」さん。
これを説明できるのがいわゆるゲロスピではない「スピリチュアル」の領域であるけれど、カトリック神学では限界がある。そのため後発のプロテスタント陣営の中には三位一体なんか嘘っぱち!と言い放って認めないグループもできてしまった、とりーかお総研では見ている。
それでは5年前の夜中にわたしの頭頂から突然入ってきた生暖かい「何か」がゆっくり全身をスキャンして抜けていった「あれ」は何なのか、
マリアグリッド で地面にどっしり吸い付いたり、体が軽くなったり、筋肉の痛みが取れることはどう説明するのか。
神学者の皆さま方、左脳ばっかり優先してたら松果体なんか小さくなるばっかりだから、聖霊を身体で感じるようになるわけがない。
そして神学ではイエスが行なったと言われる数々の「奇跡」、目の見えない人を直したとか、血が止まらない女を直したとか、歩けない男を歩けるようにしたとか、悪霊を追い払ったとかとかとか、そんなことはおとぎ話、オマケみたいなもんといってまともに取り合おうとしないってことも、よくわかった。
しかし初めてイエスの話を読んだ子供のわたしが、「みんながそんな風にできたら世界から苦しむ人はなくなる」と素直に思った気持ちを、わたしは改めて思い出した。
キリスト教徒はみんなそういう気持ちでいるのだろう、素敵だなと素直に思っていた小さな女の子、大人になってもほぼ全ての人間がそんな力を持てると思って生きてきた自分と、
「そんなことはあり得ない」と思って過ごしてきた人間であれば、神がいるならどっちにそんな力を与えるだろう、とも考えた。
これは傲慢な意味ではなくて、単に「なぜ、どうして」の話だ。
求めるから与えられるのではないか。
そして、日本でキリスト教が普及しない、するわけがない理由もここにあると思った。
日本に根付く「霊魂」の問題、お盆に先祖の霊を迎える習慣は宗教を超えた「生活文化」。
そして神道や仏教ならメソッドを持っている「厄払い」とか「成仏」とかの概念、わたしがやっている「過去の因縁を解く」といったようなことの代替になるものがないからだ。
そしてこれまでそのような能力を持つ者を、異端だとか魔術だとかなんとかいって押しやってきた。
でもいくらキリスト神学の理論体系で説明しようと、この地上に残っている「残留想念」はある。人の生活が時々それによって支障をきたしている。
また多くの人はこの混迷する時代に理論より気持ちの寄り添い、精神的な安心を求めている。
在来宗教ではここが満たされないから得体の知れない新宗教や「望みが叶う」げろげろスピリチュアル、コアを持たない「癒し屋」にシェアを奪われている。
ほんとうに僭越な言い方だけれど、ほんとうにもったいないと思う。
本来の自分自身を生きよ!というイエスの教えと、実は目に見えない領域のエソテリック(秘儀)的な要素もあるのに、何かが決定的に欠けていると確信した。
まあ、だからこそわたしのような変人(または既知外)がやることがあるわけで、彼らの立場ではできないということになるのだけれど。
教会には教会の意義があったということは今回よくわかったし、逆に自分が提供することの意味を見つめ直すことに繋がった。
やはり、丁寧に、ゆっくり、根気強く、ということはキモになってくる。
今、新しい時代の幕開けで外には嵐が吹き荒れるだろうけれど、わたしたちが伸ばすのは自分という大木の幹で、枝葉は嵐に揺れても内面には静寂を持てるようになることなんだろう。
>>続く



