見切りをつけて発想を変える(2)
グレートセルフリセットのカテゴリかどうかわからないけど、これの続きっちゃ続き。
#記録 マイ・グレートリセット #2 見切りをつけて、発想を変える(1)
今日も取り止めのない話。 AIはとても便利なものだが、やっぱり予想通り「AIを使いこなしてる俺すげー」を誇示してくる向きも多いよね。 もはやAI使いこなす人とそ…
「発想を変えましょう」な〜んて言われても「そっかー!発想ね〜!じゃ、こう変えよう!」などと思いつく人はいない。
→ ってことに自分が気づくまでに相当時間がかかった!
一般的には、自分の思考を高次から観ることって難しいんだってことが、わたしはわからなかった。だからわからない人の気持ちがわからない。
「自分が日頃どういう発想(思考傾向)をしているか、を観る」こと自体が、多くの人にとって難問だったりするんだわ。(それが#1に書いた気づきのひとつ。先日の教会で見て気づいたんだよ)
んで、だからみんな占い(ザックリ)とか好きなんだ。自分を他者から定義されたい。言い当てられて安心したい。前世がどうだとか言われたら「だから自分はこうなんだ」って免罪符もらった気分になりたい。
しかしそれもあくまで統計的な話だから、より詳細に「その人」を言い当ててもらえる能力者を探す、、、、とかそんな向きも多かろう。
自分(真我に近いっちゃ近い)と自分だと思い込んでるもの(エゴ)を同じと捉えている場合、自分の思考を客観視することが至難の業。
それゆえ何かあると「否定された」と感じやすくなっちゃう。さらに拗らせている場合「否定は良くない」「褒めて育てる」などの単純論に飛びついて、今度はそれを蜘蛛の糸のように握りしめるからさらに危うい。
・・・てな話はさておき、今日はその話をしたいわけではなくて発想を変える話。
これはすげー単純な例を思いついた。
例えば。
2、3日前、ここ関東では「夏日」だった。都内では31度をマーク。まだ5月だよ。
それなのに今日はマジ寒い。本日はカシミヤ。もう5月だよ。
こうなるともはや「衣替え」などという日本の習慣は全く意味をなさなくなってくるわけで。
ひと昔前なら、「ちょっと早めの季節を取り入れる」はオシャレの基本だったし、うちの母なんかはその原理主義者(笑)だから、「あなた5月なのにコーデュロイなんておかしいわよ、恥ずかしいわよ!」なんて言うタイプだった。
だけど、もはやそんな「自分のしきたり」にこだわってる場合じゃなくなって、Tシャツとカシミヤが同じ場所に混在することを「フツー」としてしのぐしかなくなった。風邪引くよりマシだもん。
いくら「季節感がなくなった」とか「冬物が片付かない」とか、どんなに嘆いたところでどうにもならない。それは、「これまでの正当性」。
・・・でね、こんな風に「五感」で感じられる場合なら、誰でも「見切りをつけて発想を変える」は簡単なんじゃないの?
そう、みんなできないわけじゃなくて、実は簡単なんだよ。
だけど、トリッキーなのは健康とか命に関わる問題だった場合でも、「五感」というリアリティがなければ気づきにくく、そのため切り替えが難しいってこと。
また、それを「誰もやってない」とか「みっともない」とか、外部からの視点をベースに考えてると、例の「お駐車違反」みたくなってしまう。
「分断上等。自分は自分」
とにかくそれしかない。
これからキビシイ時代がくるよ師匠。
前例を頼りにしてたら生きていけない。
で、「分断上等」なんだけど、「分断=決裂」ではないんだよな。ここも混同しがちポイントだからみんなは気をつけて!
要するに社会実験みたいなものかなって思うんだよ。成果が出るものを探す実験。
あるひとは「作戦A」をとる、あるひとは「作戦B」をとる。あるいは世の中では「作戦X」が有効って言われてるかもしれなくて、そのカウンターとして「作戦Y」を言い出す人が出てくるかも知れない。
でも自分がとる作戦は自分で決めたらいいんだよ。Sでも、Mでも、XLでもいいじゃん。自分の作戦を立案しろって話。(あーそれは服のサイズねw)
そして、効果が全てなんだから、どれが効果的だったか分かったら作戦を変更すれば良いんだよ。
ただそれだけ。
大切なのはコミュニケーションと観察眼かな。
「作戦A」にしたからって、「Bはダメだ」とか「Cより優れてる」とか、そこはどうでもいいんじゃないかな。
Aでやってみたけど、どうやらZが良さそうだとなったら採用すればいいだけ。
Aでやってみた自分は無能、とかそんな風に落ち込む必要もないし、「作戦Xの人にバカにされた」とか思う必要もないよね、って話。
そんな被害者意識は助けにならないし、バカにされたって別にいいんじゃない?
何しろ生き残った者勝ちなんだから。
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