既知外の皆さま、本日も明けましておめでとうございます。
先日来、岡田茂吉氏に興味を持ち、無肥料農業についての著作を読んでみたいと思ったものの、ゾンアマ探したが見つからず。MOA美術館に行けばあるのかも知れないと、昨日行ってきた。
いや、本当に行って良かった。
ここは子供の頃も含めて何度か行ったはずなのに「黄金の茶室」以外まったく記憶がない。逆にそれだけ茶室のインパクトが強すぎたってことなのかも知れないし、もしかしたら、わたしが銀より金の方が好き、銀閣寺より金閣寺、、、、なのは、子供時代に茶室の洗礼(笑)を受けたせいなのかも、、、などと考えてもみた。あはは。
秀吉先輩は何を考えて、どこにでも持っていけるポータブルな茶室を金で仕立てたのだろう?彼はきっと黄金に潜む本当の力を知っていたに違いない。
言われているような、単に全国の富を集めて権力を集中させて、、、、、というような、現代のさもしい我々クラスが考えることとは違う次元のこととは違うだろう(もちろん足利義満の金閣寺も)、、、ああ、なんかその辺を考えるとワクワクしてしまうのだが、今日の話はMOA美術館(笑)。
MOAの所蔵作品は「日本の美」という大テーマに沿ったもので、宗教団体あるある的な「カネになるものをとりあえず集めました」とはまったく趣を異にしていて、本当に趣味のいい日本画や日本美術の粋が集められていると感じた。
美術大国としての日本を戦前から意識していた岡田茂吉氏、集めた趣味の良い美術を広く一般の目に触れさせることが真の教育だと考えていたというから、わたしはその考えにまったく異論はない。
今回は企画展として『「冨嶽三十六景」Digital Remix』開催中で、北斎の46点が一挙展示されていて、改めて「日本の美意識」に深く心を寄せることができたのは収穫だった。
青ひとつ、緑一つとっても、「これ以上ない」という絶妙に選ばれた色の合わせで作るグラデーション、版画でありながら、人の動きが、その切り取られた瞬間だけでなく、連続する前後の動きまで想像することを可能にす描写力。。。。こういうのを観るにつけ、そりゃ日本は漫画やアニメで他の国々の追随を許さないものを持ってるはずだわ、、、、と思ってしまう。平安絵巻の昔から、我々は立体を平面に落とし、巻物という「スクロール画面」で時空間の連続性を描く(読み取る)ことに長けていたんだから。
鑑賞するスペースも、押し合いへし合いではなく、心ゆくまでゆったり落ち着いてじっくり観れたことや、同行の友達と構図や色遣い、ディテールの凄まじさなど思いつくことを口に出して共有できたこともありがたかった。
↓こちらは我が家の近所が描かれたもの。海岸線は変化しても、富士の姿だけは変わらない。写真なき時代の、これは貴重な時代証文なんだなあ。
https://www.moaart.or.jp/events/hokusai-2-0/
次回は広重の「東海道五十三次」が予定されているそうだからこれも観たいと思う。
↑↓気が狂っているとしか思えないこのディテールの細密さよ。正気の人にはできないことをやるのが芸術家だと思わせる。
美しいものは無条件に心を潤す。「真善美」というけれど、やっぱり美しいものこそが正義で、美しくなければそれは嘘だろう。
また美とはどんなもの、どんな現象、どんな存在の中にも存在しているものだから、我々はいかにしてその美を見出すか、という視点も忘れてはいけない。言うなれば、みんなが嫌うゴキブリも、あの羽の光沢は美しいのではないか、、、といった視点。
個人的に、岡田茂吉氏によるこちらの書、
「散花結実」という四文字の表すことには深く感じ入るものがあった。
花が散って、実るものがある。美しい花は儚く散れども、それはその後に果実を残すためであり、果実はまた、種を残すためのものであるわけで、永久に続いていく生命というものの循環、そういう大きな大きなものの中に、我々も位置しているわけで、、、、、
・・・・と同時に、「字」って大事だよな。字が汚いって最悪なことだよな、とも思った次第。
書というのはその人を映し出す鏡。わたしの祖父も書は嗜んでいた。あの時代は、誰もが書やお歌(和歌)をフツーのこととして嗜んでいた。そういえば田中角栄も書の達人だった、、、みたいなことを思い出した。
最近とみに、我々がやるべきは、もはや他所の国のモノマネではなくて、昔あったものの復興として、自分なりに血肉にする試みだろうな、、、と思っている。
文芸復興。一人ルネッサンスってところかな。埋もれていたお宝を掘り起こす作業。
みんなもちょっと意識してみてはどうかな?