既知外の皆さま、明けましておめでとうございます。
この1週間、色々とありまして、追い追い書きますが(と言っても過ぎてしまえば3歩進んでケロッと忘れるニワトリ級の脳みそに拍車がかかっておりまして、いつになるかわかりませんけど)、肉体も心もバラバラになったような感覚がありましたが、これに関してプロセスに寄り添ってくれた友人がいてくれて、おかげで無事に復活しまして、とても感謝しています。本当に明けましておめでとうってな気分です。
近頃とみに思うのですが、宇宙から来たとか、何と繋がってるとか、超常的な能力があってアレもできるコレもできるとか、、、、
きっとそれは凄いことなのでしょうけれど、
そんなことを誇るよりも、
結局のところ、
心根(こころね)の優しい人間であること
それがいちばんなんじゃないかなと。
「超常的な凄い能力をお持ち」である場合、時として我慢できない傲慢さや自己陶酔の世界に浸ったりして、それを誇示したり。
そうなると結局、「三次元的な世界」においての、「カネいっぱい稼いでるヤツが偉い」的な価値観と、さほど変わりがないわけで、わたしはあんまり好きじゃないなって。
心根が優しいって、ほんわかした雰囲気の「体に優しいお味」みたいな、時にフェイク演出可能なわかりやすさとも違っていて、
あえてわたしによる定義をするとすれば、
非常に単純で、
目の前に弱っている人、困っている人、辛い思いをしている人がいたら、声をかけることができるかどうか、手を差し伸べることができるかどうか、気持ちを寄せることができるかどうか、
コップ一杯の水を人に分け与えることを思いつくかどうか、とか、
そんなようなことだと思うんです。
それって大上段からくるものじゃなく、御託を並べてどうこうするものじゃなく、ただ本能的な反応、無条件の反応として、「この人(あるいは他の生きものすべて)は大丈夫かな」と思えるかどうか、、、といった心のはたらきのことで、
覚醒していようがいまいが、会社員であろうがなかろうが、たくさん稼いでいようがいまいが、自信があろうがなかろうが、タイトルホルダーであろうがなかろうが、何万人のフォロワーを得ていようがいまいが
そんなことは全然関係ない、「人としての善良さ」だろうなって考えたりしています。「人情」を解すかどうかってことかも知れません。
人情を解す人っていうのは、その分傷つくこともあるのかも知れない。
でも人情を排して、傷つかないように生きること、自分の権利範囲(損得)を守ることに、人間としての意味が果たしてあるのだろうか。(そんなのはAIに任せとけばいいんじゃないのか)
な〜〜〜〜〜〜んてことを
最近やーーーーーーーーーーーーーーーーーっぱり結論として持ってきたりしている
そんなわたしでございます。
もちろん、これはわたしの考えであって、世の皆さまそれぞれのお考えがあり、それが健康な世界だと思います。
わたしには、やだなと思う人間のタイプも当然ある。むしろいろいろとある。やだなと思うポイント、という方が正確ですけれど。
でも積極的に嫌っている人間(個人)は、よく考えたら意外と少ない。いないかも知れない。
やだなと思う人の中にも、素敵だなと思うポイントはいくつもあります。
そうそう、人を見て、好きだな、素敵だなと思うポイントもたくさんカウントできます。
でも信用となると、あくまでも自分は、心根の優しい人間、善良であるところの人間を信用する、という話でして、
なぜなら心根の優しさって、努力して得るものでもないだろう、その人に備わった天性のものと思っているからです。
そして、心根の優しい人は循環を作っていける、つまり、世界を作れると思うからです。
なんか、書いておきたくなりました。
では皆さま、今週も生き抜きましょう!
ほなまた。