本日も無事に明けましておめでとうございます。
吉野から戻ってすぐ、天河弁財天の宮司さんの著書を買ったんですよね、というのも天河弁財天が現在の敷地より奥に行った山を新しい斎庭として開発中なのを見て衝撃を受け、宮司さんのお考えを知っておきたいと思ったので。
その際、なんとなく美内すずえ先生の対談集も買ったんですよ。オススメに出てきたからw
能と古武術と物理って、関係ない別個のことに思うかもですが、要するにすべて同じ本質ですし、まーこのメンツなら仰ることを聞いてみたい。
で、読み始めたんですが、甲野善紀さんのパートが凄くて、読みたいんだけど強烈に眠くなってしまう。ページをめくるだけで眠くなる本て言ったら、既知の世界では退屈な本て意味ですけど(笑)、その真逆ですよ。
甲野善紀さんはお名前ぐらいご存知の方もいると思いますが、いわゆる「古武術」という言葉が広まるきっかけにもなった方。70を超えてもなお、さらなる術の会得が起きると仰っています。
ちなみに、この動画↑では、誰かに習うものではなく、自ずから生まれてきたものが確かなもの、ホンモノだと仰っていて、非常に勇気付けられる。
話を本に戻すと、甲野さんがご存知の、いろんな「常軌を逸した凄い方々」のエピソードを紹介されているんですけれど、甲野さんの章に入った瞬間、ページの振動数が変わって、これは何かあるなと。紹介されているのはわたしが知らない方々ばっかりで後で調べてみようとメモ取りながら読んでいるんですけど、さらさら読めるはずが、なんかもうグデングデンに酔っ払うような感じで、次の物理学のパートまでいつたどり着けるのか(笑)
この本絶版のようで、いろいろ紹介したいことがあるのですが、そんなわけで進まないのでちょっとずつ。
イメージと「力」について。
例えば自分よりはるかに大きな人が座っているとする。その人を背後から抱えて立たせるって、普通に力任せにやったらまずできるはずがない(旦那が太った人なら試してみてw)。動かないし、やる方が腰を痛めたりしちゃう(介護なんかでもあると思う)。
ここで、自分が大波に呑まれたイメージする(心の中で演じる)。津波とか。
自分は今、必死に木に掴まって耐えている。そこに次の水が押し寄せてきて、体が持ち上げられた!みたいにすっと立つ。すると立たせられない人も動かせる。巨漢でも。
こういうことが「火事場の馬鹿力」で、我に返ったらできない。
技を行う際に、この技がうまくいくかどうかなんて、先を占う気持ちがあるなら、気持ちの安定を欠いているということ。(ゆえにうまくいかない)
・・・・これってつまり「二元から脱する」の境地のことで、やっぱり「良いことだけをイメージしましょう」とはちょっと違うんですよね。良いも悪いもないところ、意志すらもないところに力は働くということ。
「これがうまくいくんだろうか?」って考えることがダメな訳でもなくて、強いて言うなら「いくかもしれないい、いかないかもしれないからどっちでもいい」といったポイントに気持ちを置く、といえばいいのかもしれない。
(ちなみに「どっちでもいい」と「どうでもいい」もまた別なものだから要注意ね)
日本武術が古来から追求してきたのが「無想剣」という状態で、自分では何も考えていないのに、剣が勝手に動いている。「我ならざる我」に体の動きを委ねて行う、という風に甲野さんは仰ってます。
(あーやばい、この時点でむちゃくちゃ眠くなってきたから、これで限界です)
おやすみなさい😇😇😇😇😇😇