「テレパシー」という言葉。俺ら世代のオバハンだと70年代にユリ・ゲラー先輩のブームとか、「超能力少年」みたいなアニメで使われてたのを思い出すし、一般的にはオカルトと思われてる。
テレパシーとは telepathy でteleは遠隔、pathyは感覚とかフィーリングみたいな意味。
けれども俺らジャパンには「以心伝心」という素敵な言葉があって、はっきり言ってそれがテレパシーだ。これはいにしえの時から、この日本列島に住む者なら誰でもが使えた能力。そして当時の「現実」は、文字の「開発」によって凄まじく矮小化されてしまった。実際に、文字や言葉は現実の何ひとつ正確に伝えることはできない。
例えば実際、今、わたしの中にある世界、わたしが掴んでいる世界を「言葉」にして「文字」にすると、全く正確ではない。受け手が理解できる範囲(レベル)に圧縮されてしまうことを計算に入れて伝えようとするなら、せめて何通りかの例を出しての説明、またその前提となる情報まで含めての記載を必要とするところを想像すると、アホみたいに長い文字数を要するだろうし、アホみたいな時間数も要する。その間にはさらに脳内に溢れ出てくるものがあり、まったくもってアホみたいな行為となる。だいたいそんなものを辛抱強く読んで、そのまま受け止めてやろうとしてくれるようなアホな人もいないに決まっている。
情報の圧縮とは、言うなれば、ホールで聴くオーケストラの演奏には空間含めたものすごい情報量があるわけだが、それをレコーディングした時点で仮に半分程度に情報圧縮されるとする。そこをレコーディングエンジニアがどれだけいじっても、ホールに充満していた情報からは遠くなる。CD音源をデジタル化すればさらに圧縮され、また各自手持ちのサウンドシステムによってさらに圧縮され、スカスカの情報がイヤホンから入ってくる、、、、という仕組みと同じ。
古代の人は、文字なんかを用いる必要なく、情報を「巨石」に入れることができた。岩は記録メディアだから、人はそこに集まれば岩を介して情報をコピーできた。おそらくそれは、当時は人間の身体が綺麗で、松果体と、体の外側にあるエネルギー体のリンケージが完璧だったからだろう。外界には余計な電波もwifiもない。
わたしは昔から意味不明に巨石が好きで、世界どこでも「岩」を見ては心ときめかすバカだったし、電車に乗っては車窓から見える山の形を延々と目で追っているようなバカだった。それはまったく目的を持たない「習性」で、今でも巨石を見りゃ「きゃ!」となるし、だから何なんだとか言われても「別に」としか言いようがない。
しかし多分、わたしのバーイ、そのようにして岩と山からなにがしかの情報を常にもらってきたのだろうと最近になって思うようになってきた。だから「その情報は何の情報?」と聞かれても「知らね」としか言いようがない。何しろ言語っていうのは本当にアホみたいにめんどくさいもののように感じる今日この頃。
・・・・ということを書いているのもまた文字だというパラドキシカルな世界は、樋口一葉が「これからはもう口語体で小説を書くべし。世の中みんな文語体でなんか喋ってないんだからさー!」と決意した分を文語体で書いたことに似てるっちゃ似てると今気づいて一人ウケているわけだが。
また前置きが長くなってしまった。
そんな一方で、ここ最近は非常にテレパシックな世界に近づいていることもヒシヒシと感じている。
さっき、今週末のWSで、笠井さんにグリッドをお見せする約束をしていたことを思い出し、「それじゃ早めにきます」と言っておいたものの、何時に行けばいいのかな、とふとよぎって、次に久しぶりにTwitter(もはやめったに見ない)を開けたらDMが来ていて「週末何時に来ますか?紹介したい人います」と書かれていた。
すごいね。最近はこういうことが非常に多い。「引き寄せ」ともまた違うんだよな。
むしろ返信しないで例えば「15:38」みたいな刻んだ数字をイメージしておけば伝わるのかな、などと考えているナウ。そしたら本当にユリ・ゲラーの世界だね(笑)あの人確か油田とか発見したんじゃなかったっけ、透視で。
俺はコユリ・ゲラーぐらいにはなれるかな。コユリより百合子のほうがウケるわね。あいつ最近見ないわね。元気なのかしら。元気でしょうねどうせ。
あ、新しい玉できました。