の続き。
いや、もう、ものすごいものを見た!と思った。
かれこれ20年ぐらい、謎に満ち満ちた「白山信仰とその起源」というものを追ってきたわけだが、例によって重層的で多岐にわたり、パーツパーツでは解像度が高いものの、全体となるとバキッとした一枚絵にならない感じでとどまっていた。
どう重層的かといえば、白山という要素にはざっと、
・お山としての白山連峰(山岳信仰)
・修験
・菊理姫
・いわゆる被差別とされてきた人たち
・十一面観音
・泰澄
これだけのパーツが連なっているわけだが、ここへきて超最近
・白山王朝(いわゆる神武朝以前の文明)というキーワードが出てきたことによって一枚絵のパズルが鮮明化してきた感があった。
でも、それもやはり「現地を見てこその実感」で、実感がなかればただの観念で終わってしまうところだったから、やっぱり現地入りは非常に大切なことだなあ。
泰澄大師の「白山の開山」をきっかけに、禅頂と呼ばれた白山山頂を目指す参詣道として設けられた登拝の道の一つで、美濃側に開かれた道であることから美濃禅定道(みのうぜんじょうどう)と呼ばれました。白山山頂への禅定道は、そのほか石川県側からの加賀禅定道、福井県側からの越前禅定道があり、各登拝口には、登拝者が集まる拠点として、美濃馬場(長滝白山神社・長瀧寺)、加賀馬場(白山比咩神社)、越前馬場(平泉寺白山神社)、の3つの馬場が設けられました。美濃馬場は主に東海・関東からの登拝の信者たちが往来し、「上り千人、下り千人」と呼ばれる賑わいを見せたと伝わり、白山信仰に篤い武将をはじめ、戦国武将として名高い織田、豊臣、徳川各家の信者もこの道を通ったといわれます。「長滝白山神社」を拠点とするその道中には「大師堂」「白山中居神社」「いとしろ大杉」といった史跡が信仰の道としての歴史を伝えています。
白山長滝神社。
かつて神仏習合だった時代のあまりにも広大な敷地図。上り千人下り千人と言われた修験者を受け入れる宿坊がずらり並ぶ。
このエリアが一大宗教都市であり、「修験者」の意味するところを考えるとあまりのことにハーーーーーーーーーーーーとなる。
しかしながらというか、それゆえにというか、例によって明治政府によって仏教部分のほとんどはぶち壊された。とはいえ、現存する敷地はやはり広大で、ここがいかなる場所だったかは簡単に想像ができた。
広大な敷地の中で気になったポイントいくつか。
明らかに古代祭祀を思わせる、真ん中にミシャクジを配置しての円。護摩壇であるとの説。
修験者が円の周りを3回まわり、道中の安全を願掛けしたという説明を受けたが、実際はそんなもんではないだろう。この円の周辺には水が流されていたのじゃないか?と思ったり。
昔の地図ではこの円に対しての拝殿も手前に描かれていることから、何れにせよこの場所自体が特別な意味を持ったと思われる。
そのお社(金剛童子堂)に捧げられた絡まる蔦。
これも「ククリの力」を象徴するもの。こんなのは初めて見た。
境内に入念な水路が巡らされている。ここは白山伏流水の「水の里」だ。
ハハーンと思った。
。。。。。。と思っていたら、実際このあと訪れた石徹白では現在、伏流水を使っての地区内発電が行われているのをこの目で見て、「!!!!!!!」となった。
水流れるところは何があっても自衛できる。鉄壁だ。
センターを菊理姫として3つ並ぶ本殿は巨大すぎて写真に収まらず、全く現場感を表現できていないどうしょうもない一枚だが、この規模感から言っても、とてつもないもの、とてつもない文化がここにあったことを想像するのは容易なことで、
また、ここから受ける感じは伊勢とも熊野とも別種のもので、正直「比べものにもならない」とまでわたしは感じた。
自分が見てきた中で、これだけのものは初めてだ、と思ったが、それは甘かった。この後、さらにすごいのがあって言葉を失うことになる。
ちなみに、この本殿は下の写真に見えている拝殿の裏にある。巨大な本殿を隠す拝殿もまた巨大。
とにかく、写真では何も表現できていないので、みんなにも一度訪れてみて欲しいです。
わたしは今すぐにでも再訪したい。でも、この重たい暑さには閉口した。
>>>続く