これから書くことはものすごく個人的なことです。
今日の午後、ある方の死亡記事が駆け巡り、軽く衝撃を受けました。同時にいろんな感慨が浮かんできました。
その名前には馴染みがある。
というのは、その方(Y子さん)の母上(すでに故人)とわたしの母は幼なじみ、中高の同級生「仲良しグループ」です。この、母のお友達である「オバハン軍団」の結束力はものすごいものがあり、軍団メンバーはよく家にきていましたし、わたしにとっては母の友達というより「軽い親戚」ぐらいの感覚でなじんでいました。もちろん今もです。昨年の父の死に際しても、彼女たちの思いやりに満ちた尽力は半端なく、今は広い実家に一人で住む母の元に、誰かしら行ってくれたりほぼ毎日連絡を取り合ったりしているようなので、わたしとしては本当にありがたい存在です。
そんな関係の軍団だから、Y子さんの話は、昔から話題に上ることも多く、直接の面識はありませんが、ある意味でよく知った方でした。
けれど、そんな風に伝え聞く話から、わたしは会ったことのない彼女のことが苦手だった。
彼女の話題はわたしをあんまり愉快な気持ちにしなかった。
この際だから有り体に言ってしまえば、嫌な女だと直感的に思っていた。もちろん若いわたしが人の口から聞く情報から一方的に思っていただけで、交流して不快な思いをさせられたとかそういうことではありません。
しかし今でも思い出すのが、軍団のあるオバ様の一言で、それはある時期までずっとわたしの中に残っていました。
「とにかくY子ちゃんは素敵よ。仕事を持って、自立しているっていうのは。人はそうじゃないと」。
わたしのことをよく可愛がってくれていたそのオバ様は、その時期Y子さんのこともとても可愛がっていて、割と頻繁に話題が出てきました。そして何かの拍子にふとわたしにそう言ったのです。
当時、わたしは身体を壊して最初の会社を辞め、向精神薬を飲んだりしながら家にいて、良くなったと思って薬をやめると突然悪化する、といったような、今思えば鬱と処方薬のスパイラルにまんまと引っかかった、みたいなことなのですが、
二度とどこかで働くなどということは想像さえもできない、前向きにやりたい仕事なんかない、体調に自信が持てないのに就職を探すなんて、考えただけで嫌な気持ちになる、、、という状態で、なんか楽しいことがあれば出かける、友達と遊ぶ、ぐらいの日々を送っていました。わたしとしては、それはそれで悪くなかった。
でもその一言は、結構グッサリ、わたしの何かに刺さりました。
「仕事を持って、自立していないといけないんだ」。
そう思ったら嫌な気持ちになりました。このオバ様が、何かの意図を持って言った言葉なのか知る由もありませんでしたが、わたしには何か強烈な皮肉に聞こえた。
だけどそんな嫌な気持ちを跳ね返すために、早く元気になって、バリバリ働いてやろう!などと思うタイプでは、わたしはない。グサッときたはきたけど、別に何かを変えようなんて思わなかった。
当時から「嫌なことはしない方がいい(のではないか)」と思っていたし、「無理して頑張るのが美徳」だなんて、やっぱりどうしても思えなかった。
だいたい、嫌なことをした結果、病気になったんだし。でも今ほど確信していない上に、なかなか全快しない自分に対する不安もありました。
結果的には、その後何年かかけてわたしは自分を取り戻していくわけですが、わたしの中に2つの疑問だけはうすらぼんやりと残っていたように思います。
ひとつは、「Y子さんはそんなに素敵な存在なんだろうか」
もうひとつは「みんな仕事をして自立していないといけないんだろうか」です。
前者は、やっかみとか敵対心とかそういうことでは一切なく、「素敵な女性」ってなんだろう?という検証のような意味です。
わたしにとって「嫌な女」は、本当は「素敵」なのだろうか、と言い換えたらクリアーかもしれない。もしそうだとしたら、わたしは何かを改めるべきかもしれない。
後者に関しては、結局、その後わたしが「自立」、つまり会社員として仕事をして、それなりの収入を得て、住むところも含めて一人で生活をマネージするようになっても、「わたしは自立している。だから立派なんだ」あるいは「あの人は自立していない。だからダメなんだ」などと、やっぱり思うことができなかった。
そんなこと(経済的自立)はわたしが思う「素敵」のすべてではない。それよりも「毎日が精神的に満ち足りているかどうか」の方が問題だと思っていましたし、今も思っています。
それに関してはいまこの時代、ようやく(世間的に)答えが出つつあると思います。いや、実際は出ている。気づく人は気づき、気づかない人は苦しい。
さらに何年か経って、今度はY子さんが代議士として出馬する折には、オバ様たちの間で、その話題はタブーになりました。
彼女のような人が素敵なのかどうかも、わたしの関心事ではなくなり、「世間に見えている政治家一般」というものも、わたしの関心事ではなくなりました。
今日この訃報に、彼女に対する気持ちは特になく、それよりも、自分の通ってきた道に思いを馳せることになりました。
彼女は少なくとも、内輪で聞こえた話の他に、彼女としての考えに基づいた人生を送ったのでしょう。何がしたかったのか、どういう人生を目指したのか、わたしはわからないし、本当のところは本人以外誰にもわからない。
注目を集め、社会の大きな波に晒され、支援者がいて、批判者がいて、ネットがあって、発言の裏を読まれ、都度都度誰かの話題にされる。
そんな人生がどれほど満ち足りて、どれほど苦渋にあふれたものなのか、何を得て、何を失ったのかは、本人以外にはわからない。
今のわたしは、人は結局、誰かを賞賛するにしても批判するにしても、その人のことをわかっているわけではない、とか、人は自分が理解したいように人のことを見るものだ、とか、そんなふうに思っているし、究極、「人は人のことを理解したりできない」という結論を持っているから、基本的に自分と振動数が調和するかどうかだけを大切にしています。
そして、仮に調和しないからと言って、その人が「ダメ」だとは思わない。その人は、その人の振動数と調和する人々の世界では「良い」ってだけのことなのです。
亡くなった理由や詳細を知りませんが、もし仮に彼女が何かから逃れたくて自分で選択したことなら、周囲はその選択を批評すべきではないことだけは言いたい。
ただ、もう人の褌で相撲を取るような生き方は強制的に終了させられてしまう。自分の「本当の本心」から言葉を吐かないと、結局自分を蝕むことになる、そんな「新時代」を象徴するような出来事だな、と思いました。
そういう意味で、新時代はかなり厳しい。
コーエン兄弟の『ファーゴ』という映画があって、当時は絶賛されたのだけれど、わたしは「そんなに〜?」って思った。
でも最近なんだか、とみに、この映画のラストを思い出して、じわじわとその深さが沁みてくる。
ちなみにわたしは、さっき慌てて七草粥を作りながら、「あれ、おかしいな今日誰も七草粥の話題出してないな」と思ったら、今日6日だった!
なんだ明日かよーーーー!
だけどもっとマヌケなDNは気にせずうまいと言って食べるだろうからどこにも問題はない。
そんなことが実はすごい幸せなことなんじゃないのかなー、と思ったりするのです。
わたしは生きている。
今日も理恵子と、お互いの野望について話しあったりして、まだまだこれからやってみたいことがある。
それはなんて素敵なことなんだろう、と思います。
そして、なんだかんだ言っても、生きているってこと、それだけで立派なことなんだと思っています。
長くなりました。
読んでくれてありがとう!
またね!