ある意見(またはある性質)を持っている人を讃えるということは、その反対意見を持つ人を評価しないとか貶めるということをまったく意味しないはずなんだけど。
世の中はそこがセットだと自動的に考えている人が多いみたいだね。
若い頃は、この方がTVで吠えまくっていて、主張に一理はあるものの、まあ、なんつーか「ギャアギャアギャアギャアうるせーな」と思っていた。
で、「うるせーな」と思うものの、彼女の訴えのすべてではないにせよ「や、実際そうかも、、、」とか、「そんな見方もあるんだな」とか、
「一考の材料=考材」はたくさん与えてくれていた。
上野千鶴子先生だって同じだろう。
たぶん、それがこの方々のお役割というか、「みんな一度考えてみようよ」の種をばらまくために、論戦を張っていたのだろう。と思う。
その上で、この方(に限らず)が好きか嫌いかは受け手の好み。
また、この方個人が好きか、この方の主張が好きか、も当然別な話だと思う。
が、実際はそこを切り離して見ることができない人が多いんじゃないかな。
直接知っているわけでもないから想像に過ぎない「人格」まで持ち出したりして、いかに好きか、あるいはいかに嫌いかのコーティングを厚くしていく。
仮に「嫌い」だとしても、その人のすべてを否定するとか、「好き」だからといってその人のすべてを肯定もしくは鵜呑みにするとか、
そんな極端さは子供じみている。
物事なんでも「是々非々」であって、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」的なのは単に知性の欠如に過ぎないんじゃないかってわたしは思ってる。
自分がイッパシのオバハンとなり、時代の変遷をそれなりに客観的に振り返れるようになった今となっては、
「あの当時のフェミニスト」が、どんだけ苦しい立場にあり、意見一つ言うのにどんだけの辛酸を味わったか想像つく。
だって、なにしろ、それから30年経った今頃、ようやくと言うか今さらと言うか、え、まだそこ!と言うか、、、、
な感じで「ジェンダーギャップ」みたいな言葉がピントのズレたオッサンの口から飛び出すようになったわけで、
この30年の間に、働く女性はどんどんオッサン化が求められ、あるいは自ら進んで、あるいは無意識にオッサンと化していき、
一周回って今そのひずみがいろんなところで出ちゃってるよ(出ないまでも内包されてるよ)、困った困った、、、、、というところに、我々は立っているわけだもの。
女性性だの男性性だの、もう聞き飽きたわ!っていうのだって、たぶん「この界隈(どの界隈?w)」に限った話で、
「一般的な社会」においては、その辺の理解が進まないまま「ジェンダーギャップ」みたいなわけのわからないひとつの概念が、なんとなく宙を彷徨っているのじゃなかろうか。
誰の中にもオッサンもいるし、オバハンもいる、少年少女だっているのが人間というもの。
得意なこともありゃ苦手なこともある。ほんとは苦手でうまくできないことを、うまくやらなきゃいけないという前提が、物事を複雑にしてるだけなんじゃないの?
「ジェンダー」という「区分」じゃなくて個人資質で考えたらいいのにねえ。
とはいえ「女の寿司屋」ってなんかやだな、とわたしは思っちまいますけどね。(関係ない?)(あるよね?)(ないのか?)
な〜んてことを、
「この方」について、偶然目にした婦人画報の記事を読んで、
結婚しません、 我慢しません、 忖度しません【元祖わが・まま】ブームです! 田嶋陽子さんインタビュー
へー、あの田嶋先生も80歳!こんな暮らし方されてるんだな〜、、、って素直に素敵だと思った後で、
記事についてたコメントを読んだら、なんだかなーって気分になって、色々と思うところがあり、書いてみたのが今日の話だよ、っつーわけ。
ロイヤルなご令嬢の結婚問題だって、「人ンチの話」なのに、まるで自分チの親戚の子かのように、言いたい放題、
ある意味「モノを言えない相手」に対して、寄ってたかってガタガタ言う人たちを量産すべくメディアが煽る一方で
「女性の活用」みたいな話だとか、「多様性」だとか、なんやかやが同時並行している。
いずれも、一切の中身がない、どこにも芯がない話だわな。
人は何をしようと、何を信じようと、何を選択しようと自由!
あなたは嫌なら、それを支持しなければいい、受け入れなければいいだけのこと。
受け入れないということに対して、ことさら対象をキャンキャン非難する必要もなく、淡々としてればいいと思うんだよね。
SNS時代、「自分の意見を持ちましょう」は絶対だけど、「あえて表明しないでおきましょう」も一つの策ではあると思う。
あー、ちなみに「意見」と「感想」も、まるで違う2つのことだからね。
ほなまた