今年に入ってから、のほほんと過ごすと見せかけて、結構な活動量をこなしている。
創作意欲が湧いているので日々手を動かしているし、マリアグリッドは新たな展開というか、むしろ人体への作用に重点を置いていて、例の病後のくすぶりを一発解消したり、事故や骨折の後遺症を解消したりという具合の「治癒」依頼に応えている。ホントは次のグリッドはできているのだけど公開するための準備がままならず(楽しみにしていてください〜)。
そのほかに、いわゆる「発達障害」というものへの深堀りを進めていて、1ヶ月超をかけて伴走しながら公文式方式?的な「アウトプットの訓練」を通して自分で自分のことを理解していく、、、という試み案件にも着手したが、これは良い手ごたえを感じた。いずれ詳しく書きたい。
まあ、そんな中でひとつの話がある。
迷ったが、これは自分の記録としてやっぱり書き留めておこうと思うので、進行中の話だが記し始めることにした。
まだナーコロ前のこと、パルコ時代の先輩K子さんとあるライブに行ったら、オーディエンスのいでたちがあまりにダサくて、「なんなんだよこれは!!」と密かにブーブー言っていたら、前の方に一人だけおしゃれな人がいた。
「あの人だけはおしゃれ!」と言いながら、ライブ終了して、はける段階になり、そのおしゃれな人がこちらへ向かって進んでくる。
「!!!!!!!!(わたし、知ってる)!!!!」
と、それは中高時代の同級生☆子で、卒業以来うん10年ぶりの再会になった。なんとなんと!の、めちゃくちゃ嬉しい再会だった。
わたしと彼女では毛色がまるで違って、彼女は真面目な人だった。真面目だけれど冗談も通じるし、洞察力もある人で、お互いリスペクトがあったかと思う、少なくともわたしの方には、それがあった。
その後、☆子と先輩K子さんとも交えてライブに行き、そうこうしているうちに☆子とK子さんはいろんな趣味も合うことから大の仲良し、本当にいい友だちになって、しょっちゅう二人で出かけたりする仲になった。それもわたしには特段嬉しいことだった。
んな日々が過ぎていった昨年5月のこと、☆子から「実は癌再発で切開からの抗がん剤」と連絡が来た。
聡明な☆子は冷静に状況説明をしてくれた。進行はかなりな深刻さで、ほぼほぼ打つ手がないが、抗がん剤投下を続けると聞いた時、わたしには2年前になくした友だち、ミサのことがよぎった。
そしていわゆる化学療法を「もうやめとけ」と言わなかった後悔を繰り返さないために、あの時、今後は、最終的には本人の選択を支持するにせよ、たとえウザがられても俺は俺の考えを言うぜ!と決めたわけだから、
ましてや聡明で冷静な人とは話がしやすいわけだから、
「でもそれどうなんだろう?本当にやるの?」といった具合に、けっこうな時間それについて話した。
そしてやっぱり、最終的には彼女の選択を支持する、そして寛解を祈る、と言う以外にはないわけだった。それはもう仕方のないことだから、全力で寛解を祈る以外にはない。
だるいのなんのあっただろうが、8月には治療の傍らスケートの大会に出たりするほどになっていた。
てことは順調なのだろうと思って過ごしていたわけだが、年末にふと彼女のことがよぎるようになった。連絡しなくては!と思っていたものの、正月のダラダラにかまけて機を逃していた。
そんな折。
10日ほど前、K子さんから「実は☆子にあまり時間が残っていないようなんだ、、、」と知らされた。
速攻電話すると、声に張りがある☆子は、知らなければ病人だとは思えない、相変わらず聡明で冷静さと余裕を保っている。すごいなあ、さすがだなあと思った。
話によると、いったんは副作用も抜けて絶好調になった。さ、これから楽しむぞ!となったそのわずか数日後に、新たな腫瘍が見つかり、かつ、それは巨大だという。
通常のケースから考えて、そんなことはあり得ないだろう。
☆子がポツリと言った「ワクチンかも知れないんだわ」の一言で、わたしはだいたいを察した。いわゆる「ターボ癌」という造語が最近作られたようで、このケースはそれなのかも知れない。
察したから慌てて「なこと言っても、やっちまったんだから仕方ないわな。それよりがん細胞がピークアウトするまで気力体力もてば寛解だってあるだろう」と言うと、「そうね。あきらめず、投げ出さず、だね」と返って来て、ああ、この人は大丈夫なんじゃないか。いけるんじゃないか、と思った。今も強く強く思っている。
☆子も凄いけれども、先輩K子さんも本当に心やさしい。☆子のために彼女が喜ぶあらゆることをしている。
なんだか、そういうすべてに心揺さぶられる。
人のやさしさ、と言ったら単純な言葉になるわけだが、「やさしい人」とは、実は悲しいかなそうそうその辺にいるものではないことも、残念ながら身にしみて知ってるお年頃。
「人に寄り添うこと」を本気で考えられる人が身近にいるということは、もしかしてそれだけでも幸福なことなんじゃないか、と思った。
わたしたちが在籍した当時のパルコは先鋭的な会社だったが、今考えてみればウラハラに情に厚い人たちが多い。昭和の人間とはそういうものだったかも知れない。
「その人の選択だから(自己責任論)」は一見ごもっともだけれど、そのことと、辛い人に心を寄せる、思いやることはまったく別なことだとわたしは感じている。
というか、「「その人の選択だから」で、以降余計なことは言わない。遠巻きにする」的なスタンスもその人の選択であって、それが心地よいならばそれで良いし、批判する気はサラサラない。
だが、わたし個人は今のところ、そこに心地よさを見出せるわけではないんだよね。
この話は追い追い続く