要するに自分の内面ばっかり見続けてる人というのは、自分が解消できていない「課題」=コンプレックスを常に意識しているわけだよ。
それ、乗り越える為にそうするならば、良いこと、必要なこと、「成長プロセス」だと思うんだ。
てかそこを把握して見つめないとどうにもなんないしね。
でも、最近よーくわかったよ。
得てしてこの手合いは、
「実は自省はしない」「人から学ばない」っていう特徴があって、
どういうことかというと、
例えば、
「うまくいってる人は、このような場面でこのように振る舞っている」とか
「このように考えて行動している」
→ でも自分はそれをしていない(からうまくいかないんだ)
、、、、ということは観察して学ばない、
ということなんだよね。
ただ単に「自分にはそれが【できない】」→ なぜなら昔、、、、、(以下自分語り)
ということにしか意識がいかないようになっちゃってるんだよ。
それを自省と捉えるかもだけど、実は自省ではない。ただの過去の回想。ただのメモリー。メモワール。イタリア語ならメモリア。
「なぜなら」の部分はいくら深掘っても、どうすることもできない過去の案件。今ここの自分からは遠く離れた事象。
どういう理由でそれがトラウマになったか、思い出せば思い出すほど越えられないわさ。
人に仲間外れにされるのが怖い、という潜在的恐怖を常に持っている、と自認している人がいて、深層部では欠乏感とかさみしさだろうね。
そのため人におべんチャラ言って嫌われないようにする「癖」(スキルではない)を持っている。なぜスキルではないかというと、そんな癖は何の役に立たないから。
みんなにいい顔すればするほど、本人の独自特性は見えにくくなる。周囲にも、自分自身にもね。
こういう人は1つの「パターン行動」をするけど、自分では認識してるのかしてないのか俺は知らん。
ただ、擦り寄りたい人を目の前にすると、臆面もなく一目散に擦り寄り、その場にいた他の人間を排除して挨拶すらしない、とか。
それ、「大人としての儀礼」を軽々と無視している。
そういう人が言う「調和」とか「統合」とか「和合」って何なんだろ?
そんなパターン化された動きの繰り返しを見ていると、
ガタガタ言う前に、そもそも人としてダメなんじゃないのかって思う。
ま、少なくとも、年相応に成熟した大人とは思えない。(ってこれ固定観念だねw)
いずれにしろ、そんなら「仮面いい人」なんかやめちまえばいいじゃん。
あるいは、
それまであーだのこーだのさんざん自分の話はして、でも肝心な話では相手に伝えるべきコミュニケーションを端折ったり、要するに真摯な対応、もしくは自然なやりとりをするどころか、一方的に遠ざかって解決したかのように思い込むとかもそう。
人に「わかって欲しい」気持ちだけは強くて、でもわかってもらえない、受け止めてもらえなかった、などと感じたら苦手意識を越えて逆恨みするとか、
普通に友達とか、それじゃできないでしょ。知り合いはいても。
そんな人を「わかって、愛してあげる」人なんていないって。
要するに、視点がいつも一方方向なんだよ。自分一択。
それでハッピーならぜーんぜんいいけど、そうじゃないから、結局ジプシー。
セミナージプシー。セッションジプシー。スピジプシー。
まあ、まあ、お好きなところにどうぞって感じだよ。
きっとどこかの誰かが解決してくれるよ。(嘘)
はっ!
そうだ、ジプシーってね、中森明菜の歌じゃないのよ。
ヨーロッパにいたら現実見るけど、あの人たちは人のものを奪って暮らすのが「文化」だわ。
(かといって、当然一刀両断に悪い!とは思えないけど、わたしはね)
世の中は自分と他人とでできてるからね。二元論の例のトリック「人間関係とお金」をいつも想起させられる。
、、、ということを、人を見ていて大いに学ぶわ。
オバハンたるもの人生の残りは少ないから、成熟を目指したいものです。
ほなマター!