今日の話は結構大切なことだと思われる。けれども、この持っている情報量の5割ぐらいしか伝わるようには書けないだろうという予感。
というのは、
今日は、今日も、だけど、
スープを作るべく野菜を刻む手を無心に動かしていたら、これまで言語にすることができなかったいろいろなアレが、まるでテロップのように
流れるように文字になって流れていった。
しかしわたしのローカルディスク(脳内メディア)にそれらを保存できるわけじゃないんだよね。
とにかく、わたしは、8月半ばから、1日も欠かさずスープを作っている。
理由は、DNの健康問題を、いわば彼の「自己責任」から「自分ゴト」に捉えなおしたことから始まった。
結果的に、それはものすごく大きなことだった。
まだ道半ばだけれど、かなりの成果と手応えを感じているし、この先もどのような取り組みが自分が思いつけるか、楽しみですらある。
しかし野菜を刻みながら、
「でも、なんでだっけ?」とふと思った。
なんでこんなことをするようになったんだっけ?
DNの体というか「状態」を治す、ということが、「もう無理。ほっとこう」とか「手放そう」から、「できるんじゃないか?」と思ったのは何故だっけ?
そうだそうだ、わたしは自分の手を通して出るものを信じようと思ったんだった。
そうだそうそう。「手」ということをよく考えたのだった。
これは誰もに通じるように表現するのは難しいけれど、
正直、「わたし」なんかは大したことない。「わたし」は寿命あるただのオバハン。もっと言えばただの「肉体」。
ただ自分の「手」を通じて出るものは大したことある。
これは「自信」とかなんとかそういうこととは一切関係がない話で、
手を通じて出たものの具現化がマリアグリッドであるならば、あるいは身につける装飾品であるならば、
なんで「食べるもの」には有効でないと言えるのか?
・・・・そんなふうに思ったんだった。
同時に、それは、これまで自分の商品を手にしてくれた人からの「声」がなければ、わたしは絶対そんなふうに思うことはなかっただろうから、
今まで関わって感想を寄せてくれた全てのお客様に、この上ない感謝の気持ちを新たに向けた。
そして、その「声」がわたしに今、新たな気づきをもたらしてくれたんだな、、、と思ったらかなりしみじみした。
人の肉体は食べるものでできている。(人間は食べるものだけでできているわけではないけど)
その「食べるもの」だって自分の「手」を通じて出来上がる。
そんなら、食べるものだって、
他のものを作るように、めちゃ前のめりに考えたり、ひらめいたり、工夫したり、とにかくわたしの場合は「つっこんで、する」ということ
それはノー天気な楽しさとはまた別な感覚での作業。
言ったら絶えることなき好奇心とか集中力、飽くなき興味とかをぶっこんで作れるなら絶対何かが「出る」に決まっているわけで、
これまでみたいに、つまらないから「しょーがねえな、、、、」と思いながら、やっつけで作ったりした結果が「これ」なんじゃねーのか?
と自問自答した時、「すべての責任は自分にある」とめちゃくちゃ素直に腹の底に落ちた。
「これ」というのは多臓器不全だ。
このことについて今までほとんど触れてこなかったけど、それは常に常にわたしの気がかりだった。
自分がクリアになればなるほど、共に住まう人間の状態は気がかりになる。
しかし、言ってもどうにもならない。
ゆえに、深く考えることをむしろやめてきた。
しかし、深く考えることをやめたにしたって、それが気がかりである状態が変わるわけではなかった。
この夏は、だから、そんな自分に決着を付ける夏になったのだと思う。
昔、わたしはもっとぶっこんで料理を作っていた。
けれどもそれはあまり甲斐を感じられなかった。
もう過ぎた昔のことだから、特段ガタガタ詳しく振り返るつもりはない。
甲斐を感じられないから、わたしは疲弊し、それがわたしを苦しめた、とある時期悟って、ほとんど情熱をぶっこむということはなく数年経った。
甲斐を感じるから、やる。感じないから、やらない。
それは商売であれば至極まっとうな判断ではあるけれど、しかしこれは人間関係における条件設定のなれの果てでもある。
嫌ならきっぱりやらないで、気にもならないのならまったく良い。
嫌々ながらなんとかカタチ程度にやって、気になるぐらいならちゃんとやれ、だ。
そのためには、マインドセットを「相手がいるから」ではなく「自分のために」に変えれば良い。
ただそれだけのこと。
それなら相手がどう反応しようと、ひたすら自分の満足のためにやれば良い。
・・・なんだ、それだけじゃん。簡単じゃん。
まあ、そんな風に思ったんだった。
そう思えたら、物事はとてもスムースになる。
それで、今日まで欠かさず取り組んでいる。
まったく、苦ではない。
やっぱり人生は苦行なんかではない。
人が、口に入れるものはとても重要だ。
ましてや「こんな」時代。あえて言わないけれど、そのうちみんなおかしくなる。
そしてその時、平然と対処できるか、慌てふためいて西洋医学(薬)にすがるか、実際2つにひとつしかない。
知っていれば対処できるし、知らなければ後者になって負のスパイラルだ。
そもそも、わたしは電子レンジも使わなければ化学調味料も一切使わないで料理に取り組んできた。
市販の流行りもんソースやカンタンなんとかみたいな調味料には懐疑的だから使わない。
なのにわたしは元気で、DNは元気じゃなくなった。
何を、どのくらい、どのように食べるかよりも、どのように作るかの方が問題で、
要するにエネルギーが入るような作り方をすればいいだけで、それつまり「マインドセット」だけだということになる。
また「自分の手から人を癒す物質が出る」ことをどれだけ信じられるか、が大事で、
そんな力は本来、みんなの「手」にある。誰にでも備わっている。そう誰にでも。
今年、わたしは若い友人を亡くした。
やりきった80歳の父の最期の日々とは対照的に、
まだまだやれたはずの者が、目前に迫る死をどれだけ恐るか、「どれだけ生きたがるか」、この目で見た。
その残像は一生わたしの中から薄れることはないと思う。
何歳でどんな死に方をするのも決めてこの世にやってくるという「すべてシナリオ説」、「予定調和説」を信じて、それでよしとするのも良いけれど、
それならあの姿を見せられたこともわたしのシナリオなのであって、
見せられた自分には、その後、「目前に迫った死から生還した」友達もいる。
両者の違いは、自分の肉体への探究心、気づくチカラと、自分の治癒力を信じられたか、られなかったかの違いでもある。
ほとんどの人は自分に危機が迫るまで、自分の肉体には無関心だ。
そしてエネルギーといえば、「望みを叶える」みたいなことしか言わない。
それも大切かもしれないが、人は肉体がなければ存在もできないし、行動もできない。
今年、わたしはとにかく肉体にフォーカスしているし、そこをどうにかできないんだったら、所詮は大したことないままなんだろうなと思っている。
そして人間の本当の自信というのは、自分の治癒力を信じられるかどうか以外にないんじゃなかろうか、とさえ思うようになってきた。
それ以外は全て瑣末なことに過ぎないのではないか、と。
そんなわけで、口に入れるものはとても大事だということを
かなり真剣に伝えたい。
だから食べるものについての講座をやります。
まだキーノートできてない(笑)
ほなまた