このところ塗装業に精を出しているワタクシ。
先日悩みに悩んで塗料を決めた。この塗料屋さんは、調合して色を作ってくれるからいかようにもできる。
枠、鎧戸、ドア、それぞれに同じ色調のグラデーションで選び、しかも、「退色したら、このような色になる」というところまでヨンで選んだから構想としては完璧だ。
わたしのバーイ、こういうところに一切のテキトーさはない。だってイメージ通りにやりたいから自分でやるんだもの。
あーでもないこーでもないを、納得いくまでガタガタできるし、ダメとなったら直ちに変更さえできる。
本日は、そんなりーかお工務店に頼もしき助っ人が登場してくれて、作業が捗った。塗ってある劣化した塗装を剥がすという単純作業は、完璧な「無」になれる時間で、やれど尽きない修行みたいなもんである。
が、それゆえに楽しい。草むしりも同じく。
しかーーーーーーーーーーーし!
悩んだ挙句に塗った色が、気に食わない!!!
はっきり言ってぜんっっぜん、気に食わない!!!!!!
というのは、自分の中に「やってやった感」がないから正直にわかる。
母は「あら、いい色じゃない」なんて言ってるが、わたしは気に食わない。
色って難しい。
塗料として見て発注した時と、仕上がりの色が同じとは限らない。
日中と夕方の光の当たり具合によってまるで違う。
・・・・・というわけで、作戦変更すべく、また塗料屋にいくべしだが、自分でやることの醍醐味ってそういうことだと思う。
業者に頼んで「あちゃーーーー」ってなるぐらいなら自分でやる。
自分でやれることの範囲が広がっていくのが好きだし、楽しい。
もしベーシックインカムとか導入されたら、わたしは左官屋とかに見習いにいくのもいいなと思ってる。
あるいはシニアなんちゃらみたいなやつで人ンチの塗装やるのも良い。
や、でもそういうレベルじゃなく、どうせならきちんと看板出せるぐらいにはなりたいから、60でプロの左官になる、を目指そうかな。
でもめんどくさいから遠くまで仕事には行きたくない、超絶狭いエリアの中だけでやろう。
・・・・・・な〜んてことを考えつつ塗りたくっていたわけだが(バカ)
いや、あり得るよ?
ところで今日、「あぶね!!!」ってことがあった。
踏み台に乗って作業していた時、何が起きたのか踏み台から落ちた。集中しているから何が起きたのか謎だったけど、ちょっとした体重移動で踏み台が浮いたのかもしれない。
って、自分が宙に浮いたのがわかった瞬間、やったと思った。
バランスを崩したわけだからそのまま落下してコンクリートに強打、となってもおかしくなかったのに、どういうわけかニャンコ先生のように無傷だった。
むしろなんで助かったんだろ??
かつて、(呪われていた時代の)我が家では、みんな異様な骨折をしてきた。
祖母は階段から落ちたことがある。祖父は居間でイミフに転び脊椎を強打し、それ以降最後まで痛がった。また、父も脚立から落ちて同じように脊椎を強打し、やはり死ぬまでかなりの痛手に苦しんだ。母は台所でイミフな転倒をし、複雑骨折した足首にはボルトが入った。
その流れで行くと、わたしも同じ憂き目に遭ったっておかしくなかったはず。
帰宅して、「もしかして、もろもろの封印が解けて、護ってもらったってことなのかな、、、、」と気がついて、なんとも言えない気持ちになった。
それで、こういうことは、そのように思ったもん勝ちなので、きっとこの先も、何があっても護ってもらえるから大丈夫だろうなって思うことにした。
ありがたいありがたい。
自分たちを取り巻く「情報空間」には、負の情報だけじゃなく、正の情報も多分にあって、いや、むしろ我々が無事生きていること自体が正の情報のおかげなのだが、
負の情報の方が一見インパクトが大きいように感じてしまう。
でもとりあえず、「すんでのところで」みたいな話は、実は我々にはたくさん起きていて、だけど気づきにくいものだと思う。
その人の「才能」みたいなものも、その人自身というより情報空間からくるものだから、あなたになにかひとつでも「できる」ことがあるのなら、それは正の情報からもたらされているもの。
つまり生きてるのではなく生かされているわけだ。
感謝っていうのは、特別何かしてもらったからというより、生きているってことそのものに対して、する必要があると思う。
では、またね〜!