オサナイカオリノシゴト

KAORISSIMA ENERGY WORKS

結局は、「世のため人のため」が肝になってくるんじゃないか

誰も知らない未来を創造しよう


う〜〜〜〜〜〜〜〜ん、、、、

なにから切り出していいかわからないんだけど、今年の後半からずーーーーーっと頭にあるのが、この掲題の件なんですよね。

結論、そこに行き着くのじゃないかと。

 

 

俯瞰して見てみると、この過去10年ぐらいの流れが「いわゆる自己肯定」といったもんをベースとした集合意識的な方向付けだったと思う。

でもなんか、いまいまの今って、もはやそのタームは過ぎたというか、、、

うまくいった人おめでとうって話だけど、うまくいかなかった人も、それはもういいんじゃないかな〜、、、、、とな〜んとなく。

自己肯定なんてそんなものは所詮、できていて当たり前の「ベース」に過ぎなくて「生きる目的」にはなり得ないってわたしは思ってるんだけど、だからと言って自己肯定できてないことが、「さほど大きな問題」なんかではなくなる気がしているんだよね。(うわーーーー説明難しい)

おそらく今回の人生のテーマが「自己肯定」だけの人もいるのかもしれないなーとは思いますが、みんながみんな、そうじゃないでしょうに、、、要するに、「その先があるよ」っていう話です。

 

なんか、この辺のことも、巷に溢れるスピ?自己啓発?(なんだかわからないけど、マルッとした一連のもの)って、実は人の視野を狭い方、狭い方に導く結果になっただけなんじゃないか?って思ったりするんですよね。

大きなことは考える必要はなくて、自分の心地よさのみを考えましょう的な。

いや、もちろん、それってプロセス的には大切で、思考の手かせ足かせで動けなくなってしまっていた人、世の中的な既成概念、社会通念に従わなきゃ!の信念で自分を見失っていた人にとっては有効なことで、みんな取り組む必要あるよって思う。

だから「お金のWS」なんかをやっているわけだけど、そこでもお話しさせてもらってるように、みんな実は自分が本当に「好き」とか「心地よい」って、微妙に実際との感覚がズレていたりする。それは極めて普通のことだから、そこを都度都度見直してみることは大切。

ズレるのは普通。当たり前。

だってね、人って成長するんだよね。いくつになろうと、人は成長するし変わるんだよ。流れる水と同じで、実は定型を持たない。そして「環境」に大きく左右されたりもする。

この「環境」には、もちろん家庭環境とか友人関係とかなんやかやだけじゃなく、地球?宇宙?全体のエネルギー環境のことを言ってます。

「好き」とか「心地よい」も、10年前の感覚と成長したときの感覚では、変化があるのが当然だし、全体のエネルギー環境が変化すればそれをキャッチした人の感覚も変わって当然なんですよね。

で、この「自分の心地よさ」や「気分の良さ」は、自分という小さい範囲内のことだけでいいのか?っていう、、、、、

で「大きなこと」っていうのは、、、、なにもビジネスがんばって大きくしましょう、みんなに知られる人になりましょうって話だけでもないんだよね。

あくまでも人間としての器のでかさというか、、、、

どんだけ自分以外のことも考えられるのか、っていうのが、成熟なんじゃないかなー。

 

で、「まず自分ファースト」の概念て、理解不足だと「自分さえ良ければいい」と履き違えたりしまいがち。

いやいや、でも成熟した社会っていうのは、そうじゃないですよね。「自分さえ良ければいい」人ばっかりだと、社会は円滑に回らないですよね。

だけどそれって「相手のために自分は我慢しましょう」はもっと違う。その辺のことの整理が、今は改めて必要なのかもしれないなって思います。

だって自分との折り合い、つまり内と外の乖離がなくなった状態において、どういう人間でありたいのかってことを考えないと、いつまでも自分の半径5メーター以上のことには考え及ばない人になってしまう。

もちろん、自分の半径5メーターをうまいことできない人が、それ以上のことはできるわけないって言う人もいるし、一理あると思う。

だけど、社会って、自分の半径5メーターはめっちゃくちゃだけど、世界を変える発明した人とかもいるわけなんだよね。。。。

「自分さえ良ければいい」で満足なうちはそれでいいんですけど、成長が進むと「それだけじゃつまらない」ってなる人だっているし、むしろ不特定多数の人のために自分を使いたい、しかも承認欲求をベースとしていない人だっている。

・・・・・なんていうか「陰徳」っていうか、いちいち何をしましたってアピールしない。そういうのってすごく大事だと思うんだよなー。

 

 

ここからはわたしのヨミに過ぎないんだけど、たぶん、もしかしたら、

「ちょっと前までの自分」とは感じ方が変わってきたっていう人も結構いるんじゃないかなーと思ってる。

こないだ書いたように、「何かが大きな仕組みが決定的に終わってしまった」とわたしは感じているんだけど、やはり同様に感じている人はそれなりにいるだろうと想像している。

で、この人たちは、もはや「自分個人としての承認」みたいなことに、あんまり意味を見出せないようになっているんじゃないかと思う。もう、そんなのどうでもいいっていうか。

いや、わたし自身がそうだから、そういう人もいるんじゃないかなという想像だけど。

 

今年を通じて、わたしなんていうか、何を話しても「わたしは」で返す人、「自分の話しかしない人」の話が、めちゃくちゃ退屈だと感じるようになってしまった。

(あ、言っておきますけど、セッションとかではないですよ(笑)セッションはみなさん自分のことを話してくださいよ、もちろんWWWW)

というのも、まあ、みんな薄々感じていると思うけど、世界は破滅的な状況が近づいているわけでね。。。。明日や明後日に何かが起きなくても、もはや時限爆弾みたいなもの。

つまり半径5メーターの幸せだって、あっけなく崩壊するかもしれないんだよね。

そんな時に「わたしはわたしは」ってどうでも良いんじゃないのかなって、なんとなく思ってる。

ちょっと想像してみてほしいんだけど、例えば突然、食糧難がやってきて、食べるもんなくなって、それが究極まで行った場合、「うちはコメ5トン備蓄してるから(自分ちだけは大丈夫)」みたいなことに何の意味があるのか。

またそういう究極的な状況になったら、人間の絶対善スイッチが入るわけで、コメ5トン備蓄してる人は近所の人に分け与えると思う。

その時、「わたしはわたしは」の人って、「わたし以上のことを考えた人」の善意にすがる以外なくて、その人に何を返せるのかとか、考えることはあるんだろうか。。。。。とか。(ちょっとイミフかもしれないけど、わかる人はいると思う)

 

 

今年後半、「新日本風土記」みたいな地方の暮らし、人々を紹介した番組をしつこく見ているんだけど、やっぱり胸を打たれるのは地域のためや伝統を次に伝えるために力を尽くす名もなき人の姿だったりするんですよね。たいてい、ご老人です。で、そういう方々は決してそれを自慢したりしない。おっさんは淡々と、おばちゃんはケタケタとやってのけている。この人たちはいちいちSNSでアピールなんかしないわけで、ただ、粛々と日々取り組んでいる。

何よりそれがすっごいなと思って、深く感じ入ってしまうんだよ。

わたしら世代って、プレご老人なわけで、いやーなんて言うか、ホントどうしようって思っちゃうわけなんですよね。自分ホントどーーーーーーーーーしょもねーなって思う。

これ、日々満ち足りていますってこととは全く別で、「それでいいじゃん」なんて簡単には思えない自分がいる。

これはいったい何なのか、って考えてます。

 

例えば、わたしには馴染み深すぎる箱根。湯元から強羅までの道の開拓は、沿道の旅館の亭主連中がそれぞれ私財を投下し、莫大な借り入れをして道路を作ったとか、最近までわたしは知らなかった。

こないだのことで言えば、物部神社には毎年鎮魂祭の前日に「稲穂長者祭」という催しがあるというので何かと思ったら、こんなエピソードで

物部神社氏子地域出身「岩谷九十老翁」の偉業を讃える祭典です。
九十老翁は江戸後期から明治中期にかけて飢饉の時は私財を投げ打って食べ物を住民に分け与えたり等、地域に多大な貢献をされた地元の豪農です。
新嘗祭において天皇陛下以外の方では初めて稲穂を献上された人物でもあることから地元では米安大明神ともいわれており、川合小学校の校歌にも九十老翁の功績を称える歌詞があります。祭典ではこの校歌も斉唱致します。

行ってみたら、その翁を讃える石碑は巨大で、かつ神社は毎年その恩に感謝を捧げているということにジーンときてしまうし、

松江城に行ったら、廃城が決まった明治に、やはり私財をかき集めて天守閣を守った人たちがいるとか(そういう人たちの話が伝わっている地域は真に強いと思う)、

何だろうやっぱ「世のため、人のため」って、最終的にはそれが念頭にある人がいて、みんなその恩恵に預かっているってことなんだよね。

 

いやーどう言うのか、、、、、やはり「世のため人のため」に尽くした人々が、この小さな国のあちこちに居たんだなーと思い知らされては、結局、だから日本は強かったんじゃないか、

そして、今も人知れず全国各地で、「世のため人のため」に生きる名もなき人たちが居て、それは大金を投下するとかそんなことじゃなくても、そういう精神性がこの国には根強く残っているってことで、それはやっぱり強いことなんじゃないか、って思うんですよね。

けど、このご老人世代の次世代である我々プレ老人て、果たしてそういう気概はあるのかな、、、、って思うと、自分には何ができるだろうって考えてしまう。

・・・・まあつまり、崩壊後の世界の話をしているんですけどね。

 

いや、まあ、だからなんだって話ではないどころか、

「みんなで」利他的に生きましょう!だとか何だとか言うつもりはサラッサラのサラサーティなんですよ。

ただ、「自分さえ良ければいい」の限界はもう見えていて、それだと今後の黙示録的な世界を生き抜くことはできないよねってことだけは確実に言いたいんだけどね。

 

何となく、「みんなでよい循環をまわしたい」という潜在願望を持つ人はそれなりにいて、でもその表現としては行き詰まっている感じが見えたりしていて、

でも、もしかして「うっすら感じている、その先の世界」についてのイメージは、言語にしたら「そうじゃない」ってことになってしまうのかなーーーとか。

例えば「平等な世界」とか「対等な世界」とか、正直意味わからん。けど、実はその人が言いたいのは平等でも対等でもなく、「互いの分け与え合い」みたいなことなんじゃないのかなー、、、、などとヨンでみたり。

で、それは「仕組み」にした瞬間、理想とは離れてしまうというか、実現できないことなんじゃないのかなー、、、、、

とか何とかごちゃごちゃ考えている。

真のコミュニティって、「コミュニティ」という言葉を使った瞬間崩れ去る、みたいな感じかしら。。。。。

 

いやー、、、すいません、ほんとゴチャゴチャ書いただけになってしまいました。

しかしこういう話がうっすらでも響く人と話したいなー。

 

 

 

 

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