どうでもいいけど「犬も歩けば棒に当たる」って、悪いこと起きるよの喩えじゃないらしいですよ。知ってますか?とりあえず歩いてみたらいいことあるよ、の意味らしいです。
やっぱし人間にとって最も重要なことは、「自分に備わった動物のカン」を信じることでして、
(=それがよく言われる「自分を信じる」ってことなんだけど、この「自分」認識はかなりトリッキーなので、みんな単なる自我のことを自分だと思ってる。よっていつまでも「自分は自分は」のどーでもいい話から抜け出せない)
グリッドを「もしかしたら解明してくれるんじゃなかろうか」という人はこれまでもふと浮かんできたものの、
「なんか違う」の感覚も同時にあって、その「なんか違う」はやっぱし動物のカンだから「絶対」で、それ以上は自分の中の「何か」が前に進めようという気力を持ってこない。(ややこしく思うかもしれないが、「自分システム」とはそういうものです)
今回「この人は!」の感覚が鮮明だったので何も考えずに京都に行って小野田さんに会ったわけだけど、
(実際、正直に言いますと、京都というところはわたしに意地悪する🤓🤓🤓からあんまりキャッキャして行きたい場所ではなかったのは事実です)
要するに「動物のカン」が行けというから行った、という感じなんですが、やっぱしそれは「絶対」だなとしみじみ噛み締めている。
実は直近でも小野田さんの他にも京都でWSを開催していらっしゃる方のところに行こうかなと考えたことがあって、その方も素敵な方ですが「なんか違う」、が発動して行かなかった。
ついでに話を思いっきり逸らしますけど、「京都=パリ説」ってのが自分の中にあって、この二つの町は完璧すぎるし、とてもよく似ていると思っている。
卒業したらパリに行こうと思ってたのに、なんか感じ悪いから行くのやめて、結局長らくはイタリアなんかに行ったりしてたものの、
自分が立派なオトナ(オバハン)となったら数十年ぶりのパリにはすんなり馴染めたし、今ではやっぱりフランス大好き。フランスがわたしのことを好きかどうかはわからないけど、どうでもいい、という境地。
つまり、そういう洗礼(意地悪)みたいのがあるのかもねって思ったりしてる。
「京都=パリ説」に関して、この感覚を一番共有できたのは今は亡き父で、
生前「やっぱりパリはいいよねえって、大人になったら思うようになったよ」と話したら
「パリは「ほっといてくれる」から良いんだよな」と父は言った。
それがどういう意味で言われた言葉かは、わかるようなわからないようなだが、概ねわかるような気がしている。
それで今回ゾッとしたのは、小野田さんたちと京都についての話が出た時に、彼が「京都はほっといてくれるから俺には良いんだよ」と言ったこと。
その場では反応しなかったけど、心の中で「ひゃー!」と思った。わたしの中で京都=パリ説がもうひとつ分厚くなったように感じた瞬間でした。
わたしは京都が好きだけど、京都はわたしのことが好きじゃないんだろうなって感じだったけど、今はどうでも良いです(笑)
でもこの話は、これはこれで面白いんだよ。だいたいさー、大抵どこの町に行っても、その辺の人に道聞かれたりするけど、京都でだけは、一度もそんなこと起きないもんね😜😜😜😜😜😜😜😜😜😜😜
(という話は際限なくできますけど、もうやめる)
えーと、何の話だっけ?
あ、そうそう。これです。
や、ほんとにね、
わたしは誰もいない荒野を一人で歩いてきたようなものでして、
荒野ですから道なんかないところをみちくさしながら進んできたわけでして。
でも案内人は一人いまして、それが「動物のカンさん」なんですけど。
幾何学やシンボルから、各古典宗教派閥に秘匿された「真理」や「秘義」だとか、教科書で言ってることはドン無視した歴史考察だとか、パワースポットという言葉を小馬鹿にしながら巨石や磐座を巡ったりだとか、
突然「十種神宝」がすごい!と言い出しては「玉」とか作ったりとか、あるいは大したやる気があるではないのに武術のお稽古を続けていたりとか(爆笑)、
他の人から見たら「何をやってるんだ」って話でしょうけど、ある時点から、わたしは自分のやっていることを他の人たちに理解されたい、というような気持ちを完全に失っていまして、
そんなことを説明している時間があったら先に進みたい。先っていうか奥だけど。
そのために「つかみどころがないですよね」とか言われたりしてたんだけど、ぜんぜん気にならない。
「君たちはどう生きるか」っていうより
「君たちはいつまで生きるか」って話で、老い先短いオバハンにとっては、そんなことマジどーーーーーーーーーーーーーーーーでもいいことなんです。
逆に、人ってそんな簡単な「つかみどころ」を必要としてるものなのかいな、、、、という変な感慨があったりして、ま、だからこそ、いまだにみんな「自分探し」なんかをしてるんだろうなとも思ったり。
で、奥に進めば進むほど、各種バラバラとみなされているいろんなことがぜーんぶ繋がってきて、
俺の生まれたこの日本という国、これはマジすげーんじゃないか、ということに気がついてしまった。
その先に「この人を訪ねよ!」みたいな指令(動物のカン)に従ったら、やっぱし現時点ではこれ以上ない親和性というか、自分が想像していたことを遥かに凌ぐ広がりとか可能性を感じたりしているのがナウという現時点です。
これは非常に嬉しいことですが、わたしは特に浮かれているわけではなくて、
可能性はすごく感じるけれども、同時に問題が差し迫っていることは変わることない事実でして、時間はめちゃくちゃ限られている。
100万人に対する「わかりやすさ」よりも、たとえ数人でも、真に同期できる人々と出会いたい、という風にやっぱり考えています。
「自分」なんかないよ!って言っても実感がない人がほとんどでしょうから、とりあえず「自分はない」と仮定するところから始めて、
「自分」なんかない以上、この感じている「感情や気持ち」は何なんだ?とか、それはどこから来てるんだ?とか、ちょっと「自分」なんかは置いといたところで考えを巡らしてみてはいかがでしょうか?
下天のうちをくらぶれば、夢幻のごときなりなんだから、どうでもいいことに費やす時間はないですYO!