たまに見る「テレ東大学」。冨永愛さんの回が小気味良くてスカッとした。
彼女ランウェイで活躍してた時からなんとなく好きだったけど、話すのは初めて聞いた。切れ味鋭い。大人の女性って感じられてすごく安心する。まともに話を聞こうって気になる。
・・・というか、極めて国際標準のことであって、若い時からアウトオブ日本にいたら極めて普通の仕上がりだよね。
いい年して「ゆるふわ」みたいな女がとーーーっても苦手なワタクシ。
日本みたいにいびつな社会で叩かれずうまいこと生き抜くために脳みその程度を感じさせない「爪隠し戦略」でやってるならまだしも、いつしか本当に脳みそスカスカになってんじゃないの?
ジェンダー問題とか、男女和合の話を俎上に乗せるのであれば、いい加減「かわいい」を目指すのはやめたらどうなんだ(実はそこにもうニーズないですから)と思ってたりしますけど、まあ、言いませんけどね。
って書いてんだけど。
ニーズがないっていうか、そこ(いい年したオバハンの「かわいい」)に寄ってくるオスを捕まえたとして、そのオスどうなんだろって話。
・・・・ま、いいや。
とにかく、好きだ、この人。
くだらんツッコミがゼロの成田さんも好き。こんな人と話したら楽しかろうと思わせる。
「聞く」と「質問する」と「述べる」のバランスが絶妙なんだろうなあ。
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「美」はどこへ向かうのだろうか?って考えたりする。
上記動画でも語られているけど、例えばハイファッションの「今後」ってどうなるのかって考えると、もはやクリエイティヴではないし、ルイヴィトンみたいなメゾンだって、コラボ戦略しかやることないし、だいたい今さらルイヴィトンにそんなに魅力を感じますかっていうと、「・・・・・・・・・・。」。てかむしろ、、、だしね。
ハイファッションというかモード界というか、美の価値観ていうものも、いわゆる大衆に向けて念入りに「造られた」ものだし、もはやそんなもんに乗っかるにはシラケ過ぎてしまったわけだが。
いやいや、言いたいのは、ファッションだけじゃなくて「美」ってどこに行くのか?って話なんだけど、
違うか、「美の概念」がどこへ向かうのかって話か。
概念ではなく「美」そのものについては、「形のない美しさ」みたいな話じゃなくてやっぱ美は形にあるんじゃないかと。
こないだ、昔の自分の文章を読んでショックを受けたわけだが、なぜかっていうと、その当時のものはきちんと「文体」を成していたからで、今自分が書くものは文体もへったくれもないカスみたいなもの、垂れ流される汚水みたいなもんだという自覚があるわけなんだけど、文章の美しさイコール文体だよなあ。やっぱし「形」なんだよなあ。
武術を見てもわかることが、人間の「姿勢」も「形」であって、形とは「こうでなければいけない」絶対的なもので、きちんとそこが決まれば、自ずと美しい姿、美しいさま、ってことになる。
そんなような骨の使い方を常にしていれば日常の姿も美しくなるわけなんだけど、まあ、その辺を見ていて姿の美しい人ってほとんど見かけない。
ええ、ええ、自分のことはしっかり棚に上げてますけどね。
ま、でも、姿勢が悪い、顔色悪い、髪が汚い、それってどう見ても「愛の体現」ではないって思っちゃいますね。
そういや、首都圏なんか街並みも汚いし、しかも、きたねーよ!ってことすら人々の意識の中になかったりしますからねえ。鎌倉だってとてもじゃないけど美しい街並みだなんて俺には言えん。若干、古めのところが残ってるところもあるよっていう程度。こんなのが綺麗だなんて言えるかって。
なんでこんなことになっちゃったんだ炉っていうのは、アレックス・カー先生が死ぬほど詳しく教えてくれますけど、絶望的な気分になる本です。
こんなことすら外国人に指摘されてうなづく始末。
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美については、やっぱオスカー・ワイルド先生のお言葉を凌ぐ定義は出てこないだろう、ということが齢50を超えてようやくわかった。
「美」はそれを見つめる人の瞳の中にある
とでも訳せば及第点なのかな。
瞳と言ったところがニクい。日本人なら「心」と言ってしまうだろう。
でも要するに心であり意識なんだけど、瞳と表現したこと自体が美しい。天才だ。
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はーーーーーーーーーーーーー
やっぱり抽象的な話がわたしは好きだ。
ポエムみたいな投稿は好きじゃない。気持ち悪いと思ってしまう。
本当の詩なら好きだ。
抽象的な話だけ延々と3時間ぐらいしてみたい。
できるのか?
以上、
ほんとどうでもいい毒舌みたいな今日の記事。(いつもか?)
しかし一体誰が読むのか?