横尾忠則『言葉を離れる』。
昨夜から読み始めて、この本買って本当に良かった!と思った。
言葉を離れる、ということは、知識から離れる、文字から離れる、本から離れる、ということだ。
わたしは毎月アホみたいにたくさんの本を買う。というか自分でわかっている、アホそのものだ。
でもほとんど読まない。買った直後に貪り読まなければ、多分その本は読まれない。
実はこのことについて、なんか非常に変な気持ちを最近ずっと抱いていた。
若い頃は、それでもやっぱり読んでいた。何より集中力があったし、非老眼だったことも大きい。
「買ったけど、読んでない」の頻度は今ほど高くはなかったように思う。
そして、ああ、振り返りつつ思い出した。
10年ほど前のある時、わたしはそういえば決意したんだった。
生きることにこれ以上の能書きは必要ない!となぜか閃いて、「もう本は読まない」と。
「もう知識なんかいらない」と強く思った。
それなのに今はなんでこんなに本を買っているのだろう。
目に見える本のみならず、Kindleの中にもアホみたいにある。
それを出版文化、印税ビジネスへの貢献と捉えても良いし、著者へのオマージュと捉えても良いから、買うことを後悔したりしない。
けど、わたしはうすうす気づいていた。
うすうすどころか、実は毎日思っていた。
人生の時間を、「本を読む」ことに当てるのが、極めてもったいない、
わたしにそんな時間はない
という風に。
本を読んで得られる満足感を若い頃ほど感じられなくなっていることにも気づいていた。
読んだ。知った。わかった。
でも、、、、だからって、なんなの?
・・・こういった「なんだかわかんない変な気持ち」に、横尾氏はものすごくわたし好みの解答を与えてくれた。
彼は45歳まで本を読んだことがなく、
フェデリコ・フェリーニも50になるまで本は読まず、
アンディ・ウォーホルも本は読まず、ピカソも同様だという。
ああ、そうだ、とここでわたしは思った。
新庄剛志に至っては、彼は字が読めない人だ。
ああ、そうだよ、そうそう、そうだよ!
それに、、、、そうだよ、わたしの人生の彩りや深い部分の共鳴は
実は本なんかより、音楽や動植物からの方が、はるかに多くのものを得ている。
それに、横尾氏が言及しているのと同様、読んだ知識などより
人生で関わってきた人たち(交流の期間が長かろうが短かろうが)の方が、
思い起こせばはるかに鮮明にインデックスされることにも気づいた。
え?もしかして、、、、本て、実はほとんどわたしの人生に無関係なんじゃないか、
という実はまぎれも無い事実に対して、わたしは目を開くことになった!
そう、びっくりしたけれども、それは衝撃の事実だ。
だいたい、時々講座にしているエネルギーについての理解だって、
本を読んだ知識でもなければ、師匠(そんな人はいない)に聞いたことでもない、
大体が体験的に理解したことばかりだ。
本は、体験はするけどなんだかわからないことを、左脳に納得させるための手引きでしかなく、
逆に本で読んだからといって「ほんとかよ」と常に思っている自分は、読み知ったことを体験して初めて
「そうなんだ」とようやく納得するタイプだ。
誰だって、実は本当はそうだと思う。
知っていることとわかっていること、実践できることは雲泥の差なんだから。
そんな調子で彼はたった3章のうちに、本を読むことの無意味さと、それよりはるかに重要なもの、
について見事にわたしを納得させてくれた。
要するに脳みそだけで獲得した知識は、どうやっても体験価値には敵わないばかりか、
人間の持つ無限の創作力に制限を与える以上のものにはならない、ということを
誰もそんなこと大っぴらに言わなかった時代に、UFOだの宇宙だのアカシックだのが「日常の普通のこと」で
今なお齢84にして衰えない創作意欲と社会へのアイロニーを示し続けている彼に言われたら
首を縦にふる以外のことはわたしにはできない。
また、あらゆる箇所で一人頷き、彼と同じ感性を自分の中に含み持っていることを素直に嬉しく感じ、小躍りしながら、
なんだかわたしは一人勝手に、解を得た気がしている。
同時に大きな宿題ももらった。
これは「芸術家心得」のような本で、
もちろんわたしは絵なんか描けないし、横尾氏でもなければやピカソでもなく「芸術家」などでもない、
サラリーマンでもなければ母親でもない、
つまり何者でもないわけだが、
何者でもないというこの大いなる自由さを得ている自分の、
何か心の奥底から湧き出でるものを何かにしなければいけない。
その意味で、
うわーーー、わたしは本当に何もやっていないのも同然じゃんか!
ということにも気づいてしまった。
この横尾氏の本を買う理由となった
1 宿命に気づく時
2 肉体が感得するもの
3 鍵の在処
この「鍵の在処」までの3章で、もうすでに十分すぎるぐらい十分に、説得されてしまったので、もうこの先は読むかはわからない。
そんな時間はないのだ。
そして鍵の在処は、やっぱりわたしが思っている場所が指されていたわけだから、もう満足だ。
と言いつつ、他に2冊買ってあるんだよねーーーーー、横尾氏の本w
ほなまた!