昨日、某所にて開催の「十種神宝を紐解く」的なセミナーに行ってみた。
それで、わたしはもうこの手合いのセミナーに行く必要はないとしみじみ思った。それが結論。
これは傲慢な言い方に聞こえてしまうが、そういう意味ではまったくなくて、
もはや十種神宝のエネルギーをクライアントみんなが体感しているというわたしの現実に照らし合わせてのこと。
誤解なきように絶対記しておかなければいけないのは、この結論は、別に昨日の内容をディスるつもりは1ミリもなく、異議ありでもなければなんでもないんです、という大前提。
船井さんはお金の「循環取引」というトリッキーな仕掛けを丁寧に紐解いて説明されてたのがわかりやすく、そらそうだよな、ナルホド!と思ったし、
いときょう先生はホツマツタエを紐解きながら、宇宙の中の地球の構成を教えてくださり、またホツマで言われている「ニギハヤヒとは誰か」ということも解説してくださった。
お二人とも真剣なプレゼンテーションで、さすがだと思ったし、素敵な方々だったことは言うまでもないく、共に、十種神宝を「解説」したり「考察」したりという座学、お話会として、初心者の方には十分に楽しめるものだったはず。
しかし今回セミナー以外にも、今やあちこちでなされる十種神宝の紹介や考察も、自分はその世界線にいないということを思い知った。
つまりこのような自分にとっては、体感を持たない考察は、もうあまり意味をなさない、と肚に落ちた。
十種神宝のエネルギーは確実に存在していて、すでに誰でも使えるものだし、モノとしての実体がどこにあるかはもはや問題ですらない。
さらにいうならば、誰から誰に伝わったかも重要ではなく、今という大きな転換期にあって「誰でも使える」ということがことが一番のキモだとわたしは考えている。
現に不肖ワタクシは「玉」や「比礼」として「実用化」(っていうのもナンだが、それ以外に表現がない)していて、
これも、体験した人ならもれなく「確実なもの」を感じている。
うずくまっていた爺さんが歩けるようになったりなどはその例。
繰り返すけど、しつこいけど、これは「特別な人間だけ」が使えるものなんかじゃない。
それで、しかしながら、あれこれ考察したからと言って使えるようになるわけでもない。
「十種神宝というものがある」そしてそれは「人々に病のことあれば振れば良い」と言われて「あーそうなんですね」と素直に受け入れ、
「玉が勝手に佳きに計らってくれる」ということを受け入れることができれば良いのだと思う。
そういうことを解説し出すと、自我からの脱却だとか、二元論からの脱却だとかなんだとかそーゆー話になるわけだけれど、
取り急ぎこれは上記のようなマインドセットを持てれば誰でも使える。
さらに言うと、使えない人は何につけ「寄せ」が足りないんだと思う。
十種神宝ってなんだろう?なんだろう?なんだろう?なんだろう?なんだろう?なんだろう?と四六時中考えていれば使えるようになる。
聖母マリアってなんだろう?ってずっと考えていれば彼女はやってくるし、空海って何がしたかったんだろう?空海って、空海って、空海って、空海って、、、とずっと考えてれば空海はやってきてくれる。
はっきり言ってイエスもそう。
四六時中考えてれば信号が出るから、向こうも「お?」と気にかけてくれる。乱暴に言うと、そんな仕組みで、それは誰でもできる。
昨日、「十種の「玉」は9次元の人しか使えない」と言われてちょっとなんて言うか、どう形容していいかわからない気分になった。
そういう話は、わたしにはほんっっっっっっっっっっっっっっとうにどうでもいいのである。
宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』と同じで、映画の分析と解説はどうでもいい。ほんとどうでもいい。
この大転換期、悠長なことを言ってる場合じゃない。
大事なのは、本当に
可及的速やかに
「あんたはどう生きるつもりなの?」
そこと向き合え。
ただそれだけなんだとわたしは思っている。
ま、そんなことなので、
近日中に、十種神宝のzoom講座を改めて開催しようと思いもしました。