(この記事は後で下げるかも知れない)
歯を磨きながら、ふと頭をよぎって、ハッとした。
もしかして、、、、彼はイエスの再来なのではないか。
彼は金銭を持たず、諸国を行脚し、人々に会う。
嘘と偽りを見抜き、
人の心に光を刺す。
嘘と偽りとは、
例の件のような、タチの悪いニセモノを暴くことも然り、
民衆それぞれの中の欺瞞を白日のもとに晒すことも然り、
権威と制度、固定観念をなきものにし、
皆よ、自由に生きろと指し示す。
自らは金を持たないが、困窮する者にはすべて差し出す。
そして彼は困窮するが、必ず誰かが喜捨をする。
このようにして愛は巡る。
人はそのようにして生きていけると、
陳腐な「愛」だの「癒し」だのという言葉を使わず、
行いによって人に指し示している。
彼だけではない、みんながそのようにして生きていける。
そこに必要なのは、みんなに愛と正直さがあれば十分で、
それに気づいた人から自由になる。
気づいた人なら正直になる、自分に。
彼に会えばその人は、それまでの自分を悔い改めるだろう。
嘘と偽りのない正直な言葉が、その人の硬結した何かを溶かす。
メソッドとか、エネルギーだとか、そんなものよりはるかに強い何かを確信し、
彼は全国を行脚している。
「立て。行くがよい。お前は自由だ」
それだけを伝えに人に会う。
見破られたニセモノは、彼に弓を引くだろう。
しかし弓矢が当たることはない。
・・・・・あれ、それってもしかして、、、、
イエスってそんな人だったんじゃないかなと
わたしの中のイエスは、そんな人であるものだから。
イエスは独りじゃないと思う。
世界そこかしこで増殖して現れるだろう。
多分、彼はその一人なんじゃないか。
いや、彼について、わたしが知っていることはほとんどない。
ただ、いくつかの文章を読んで「信用できる」という感覚だけが残る。
彼がうざいと思うものを、わたしもうざいと思っている。こないだの件は決定的だ。
だからといって会ってみたいという気はない。
でもなんとなくそう思って、「あ、、、、」と思った。
そしてなんとなく書いておきたいと思った。
だが、この話に同調してくれる人がいないとしても、わたしは一向に構わない。