「熔ける」の井川意高さまが、いつだったか「バカってのは学ぶ能力がないから一生バカ」といったようなことを言っていて、橘玲さまは「バカは自分がバカとは思っていない」と言っていて、なるほどなーと。真理だよなあ。身も蓋もないけど。
それでちょっと「バカ」について考えてみている。
ま、このお二人も相当アクの強いお方でありまして、なんでもバカバカ連呼するタイプだからまあ、あれですけど(笑)、この件に関しては要するにおんなじことを言ってると俺には見えた。
つまりバカって「学ぶ」ということに対して圧倒的に無策、ということを指摘してるわけで。言っても学ぶっていうのが、誰かの指導を仰ぐとか、セミナー行くとか、資格を取るとかのレベルだから、「学ぶ」って言ってる意味が違ってたり。「満足いく結果が出るまでとにかく創意工夫してやり続ける」ってこととも無縁。
それで「バカ側に合わせた教育」とか「発信」をしようとしてるから、そりゃ日本全体の知能指数は上がんないわけだわ。
俺いつかのWSでお話ししたんだけど、ダメな人っていうのは「バカと思われたくない」とか「バカと言われて傷ついた」で終わっちゃうんだよね。そこで終わっちゃうんだよ!
じゃ、単にバカじゃなくなればいいだけのことじゃん、と思うけど、バカと言われて傷つくってことは、自分がバカだと思っていないってことだから、ある意味自己評価が高すぎるか、自己評価と本当は自覚している実像との間に存在するギャップに自身でおののいているってことでもあるんだろう。それで、そーなったら常に自分より劣る者を見つけて、そこでしか寛げないってことになるけど、そもそもバカと話してて楽しいのか?
わたしポンコツです自慢とかも、大抵のポンコツ話って俺にとってマジ大したことないレベルだからあんまり面白くはないし、発達障害系ならポンコツっていうのもどうなのと思うし、俺の場合、常に自分は人並みはずれて「人並み」じゃないってところから始まってるから、今さらバカと思われようが言われようが、マジどうでもいい。
バカにバカと言われてもどうせ相手はバカなんだからどうでもいいし、非バカにバカと言われたら俺が本当にバカなんだろうから努力の余地あんな〜と思うからどうでもいい。つまりどの道どうでもいい。
潜在的自己評価だけが高い人は、意にそぐわないことが起きると凹んで、自己採点を落とす。自分にマイナス評価を付ける。で、そんなマイナス評価を自分につけさすに至った相手が「悪い」ってことになって逆恨みしたり、逆ギレしたり、あるいは離れることで「解決」した気になったりする。そしていちいち「幼少期のトラウマ」に戻って傷を深めたりする。
・・・・典型的バカのパターン。
過去の傷を見にいくのはいい加減おしまいにして、「結果を出すための努力」に頭を向けない限りずっと変わらないんだけど、そもそもそこ(努力)がわからない。そうすると当然、仕事とかに支障も出る。うまくいきたかったらトライ&エラーを繰り返して成長する以外はないんだけど、うまくいってる人を見て何もせずうまくいってる、と思ってる。
しかし「天は自ら助くものを助く」だから、自助努力はしないとね。
「目的のために努力をして、結果を出す」って、ガキの頃とか若いうちになんでもいいからひとつやふたつ、そういう経験を持ってるヤツは強い。
例えばスポーツとか。勝つため、負けないためには努力するのが当然だし、「できるようになるまでやる」は当たり前のこととして染み付いてる。音楽とか楽器なんかもそうだと思う。「違う!その音じゃない!」って怒鳴られたら、怒鳴られない音を出せるようになるため練習するわけで、それができないなら「向いてない」ってことだし「才能がない」ってことなので、傷ついたもへったくれもないよね。才能自体がないなら、傷つく必要なんかどこにもないからね。
うさぎ跳び10周はナンセンスだ!って言うのも結構だけど、うさぎ跳びを10周したらどこにどういう筋肉がつくのかを知っとくことは有効で、さらにその筋肉がなんの役に立つのかを知れば、うさぎ跳び以外のやり方で鍛えるっていう選択肢も出てくるけど、そもそも身体を鍛えないでウィンブルドンで優勝する選手はいねえっす。
大谷選手だってプロスポーツ史上最大の巨額で契約した結果だけが語られるけど、想像もつかない努力してはりますって。でもみんなは結果である金額の話が大好き。
努力といえば語学の習得だってそう。
自分の話で言えば、イタリア語を喋りたければアホみたいにある動詞の活用と複雑な時制を全部覚えなきゃいけなかった。イタリア語で人を笑わせたかったら文化背景とか歴史とか政治とか、なんでもいいからネタのひとつやふたつを仕込む必要もあったさ。ナメられたくなければ正々堂々と演説かまして正当性を主張することだってしなきゃいけない。自分の出張を通すためなら内心バカバカしいと思いながらもオペラのごとく大袈裟に演じてみるとか、そーゆーことをやって初めて「わたし別に誰にもナメた真似された経験ないです」って言えるわけで。
で、若い頃に努力して結果を出した経験がなくたって、別に今からやればいいじゃん、生きてるうちにやれるじゃん、と俺は思ってしまうわけなんだけど、バカっていうのは「ダメだった」とか「できなかった」「傷ついた」に固執するもので、何かを達成する努力をしようと発想が向かない。だから決して負けず嫌いなわけではなく、ただ単にダメだった、傷ついた(と思いたいだけ)の経験を大切にしている。
ほんとに負けず嫌いなら、そもそも「何がダメだったのか」を考えたりもするだろう。それで、できなかったことをどうにかしてできるようになってやるよ!とトライするものだし、涼しい顔してコソ練してるとか、そんなのも大アリだろう。真剣にやるってそういうことだろう。
それで結果がちょいとでも出てくれば、その努力プロセス自体が楽しくなっていくものだけど、バカはちょいとの結果を出すまで続けられない。
なぜかというと、努力に仮説と戦略がないからで、「こういう風にやったら、こうなるんじゃないか?」というほんのちょっと先へのヨミ(仮説)を立てて、そうなるようにやってみる(実証)を組み立てること自体、苦痛だと考えるのだろう。それでいて求める結果が「人からの好評価」だったりするから、その先のレベルに自ら上げていくことには至らないんだよね。
前にも書いたけど、バカっていうのはいつも「人」を気にしていて、グレイトな人は「観念(イデア)」を向いている。「人」を気にしているんだけど、誰かの決して言わない凄さとか取り組み方を観察しているわけじゃないから、人を見ていて無言で「学ぶ」とか「真似る」って発想はない。潜在的自己評価が高すぎると、人を褒めたら負けなのか、誰かをありのままに見て褒めることもない。
・・・・うーん、こうやって考えてみると、冒頭の二人の言葉を逆引きするとだよ?「学ぶ力があって、自分がバカだと自覚している」ことが非バカへの第一歩じゃん。
そうすると、語学の取得ってけっこういいんじゃないかな。何がいいって、「自分そもそもバカ」っていう土台に立つのが簡単じゃんw
わたしがフランス語を流暢に操れないのは当たり前でしょ?だってフランス人じゃないんだから!
つまり自分、持って生まれたフランス要素ゼロじゃん。そこから何かちょっとでも上達できりゃ、すべてプラス採点じゃん。それでも、ネイティブから「そんな言い回しはしない」とか指摘されて「あっそう」って感じで訂正していくわけじゃん。傷ついたとか関係ないよね。流暢に喋れるようになりたいなら、ちょっとの悔しさって絶対必要だよ。
・・・・てなことを整理していくと、
バカっていうのは「悔しい」の処理が下手
ってだけのこともかもしれないね。悔しさとゴール設定が入れ替わってしまうのだろう。
頭のいい人は自分が理解したことを話し、バカは「わからない」ということだけをしつこく言う。だから話がつまらない。打つ手なし。
ま、バカにもいろいろありますけどね。自分はそもそもバカだと思って生きた方が、会得するものすべて「プラス」だし、努力のプロセスがおもしろいし、だいたい楽だよ。
あーーそういえば、前述の橘玲さまはご著書の中で「反ワクチンを叫ぶバカ」って言ってた。へーそうなんだ。
橘様の今後のご健康をお祈りいたします。