昨日はコンフォートゾーン抜けzoom講座だったので、敢えて中継は見ないで録画にして、直前まで資料作ってた。
何をって、新庄剛志さまのトライアウト生中継ね、CSでやってた。
そして敢えての結果を見に行かず、さっき録画を見た。
バリ島の奥地から、突然「野球選手になる」と言いだしてからのほとんどすべてを、彼のインスタを通してわたしは見ていたから、
本番前の、球場に、そこにユニフォーム姿でいるという、その居ずまいだけでもう、、、、泣きそうになった。
それがどんなに凄いことなのか、彼がどれだけのことを「軽々と」してきた(ように見せてる)か、知ってる人ならみんな泣く。
いやあ、いいものを見せてもらったなぁ
趣旨はまったく違うけれども、昨日シェアしたトランプ大統領の長いスピーチにも同じことが言える。
あれも、実にいいものを見たと思った。
生きてる間に、自分はいかに素晴らしいものをこの目で見ていることか・・・と思ったら、なんだか無性にありがたくて
このような時代に生きていることが非常にラッキーなことで、
っても、この時代を自ら選んで生まれてきているわけだから、自分すげえなとも思う。
最近ちょっと思うんだけど
もしかして、「今」というこの時代に起きていることを「見ている」というのが、
もしかしてわたしにとって、ちょっとした「ご褒美」なんじゃないか、というような気がしている。
「マリアグリッド元年」でもある今年以降、わたしの人生はおまけみたいなもの、ご褒美なのではないだろうか、、、、
もしかしたら「余生」ってこんなことなんじゃないだろうか、というような
もちろんわたしにしかわからない「漠然とした感じ」だけど。
新庄の件に話を戻すと、
トライアウトのために帰国して、小金稼ぎのために登場するマスメディアでのトークしか知らない人が、軽い調子で「その歳でムリに決まってんじゃん」とか、評論家口調でなんやかやコメントつけるとか、そういう人と新庄(みたいな人)の間をつなぐ共通点はなにひとつない。
バットを握って打席に立つ人と、安全なところでそれを見て揶揄する人。
今は「マイメディア」を使いこなす人が、直接の呼びかけに応える無数の存在を援軍にして戦う時代。
戦う相手は「常識」と「固定観念」。
彼のような取り組み、というより生きざまを見ていて
「感動しました」と言うだけで満足するのか、自分も何かの壁を破ろうとバットを握るのか、それは自分次第。
トライするなら絶対成功すると信じて取り組む以外はない。
トライはするけどハナから「うまくいかないかもしれないけど」などと言い訳の道を用意することがカッコいいとは、少なくともわたしは思わない。
評論家は評論家同士で、お互い評論し合ってりゃいい。
球の飛んでこないバックネットに守られて、あーだのコーダの言ってりゃいい。
それがどんだけ「安全」なのか、そのうちわかる。
安全なゾーンなんて、そのうち最も危険なゾーンに変わりますって。
だって、
やることないから退屈する
もんね。
そして、自分がそのゾーンから出ようとする時、人に対して批判的だった分、「人から批判される」っていう恐怖にやられて、結局何もできないもんね。
人のアラばっかり探してると、自分のアラが怖くなるさ。
そして結局何もできないということは
やることないから退屈する
んだよ。
年とってからのそれ、人生、生き地獄だからね。
夢中になってやることがある人は、人のことなんか気にしてるヒマはない。
ま・じ・で、ない。
わたしは「余生」だけどバットを持って素振りを続ける人生でありたいと思う。
いい球が来たら、強く打つ!
それにしても、、、
無観客で歓声もない中で、人が見てないとつまらない彼はどう集中するのか、と心配していたら
最終打席で「ランナーいる場面」が作られてしまうとか、やっぱすごいなあ、本当にすごいなあ、、、と思って、
気がついたらわたし自分の顔が超ニコちゃんマークみたいになってた。
神を味方に付ける方法を、彼は「持ってる」んだと思う。
しつこいけど、
本当にいいものを見せてもらった。
これでどの球団も彼を獲得しないようでは、日本は終わりに終わってる。
子供がいる人なら、どんな手を使ってでも、子供だけは日本を脱出させたほうがいいと思いますね。
あ、「コンフォートゾーンを抜ける」も「引き寄せる」も、
新庄見てたらわかるよね。
ほなまた